〈反間諜者の疑いあり〉とマークされていた男は、僧侶だった。
戦国時代に忍者が変装していたとかならわかるけど、舞台は第二次世界大戦下のヨーロッパ。

そこで僧侶が、日本政府に反間諜者=スパイ疑惑をもたれていたのだから、変な話だ。

疑われていた人物の名は梅田良忠(りょうちゅう)。
ヨーロッパでは、朝日新聞の通信員を自称。軍部に要注意人物とみなされていたが、終戦直前に帰国。戦後は関西学院大学教授も務めた。
1961年に病死したときの新聞の記事も簡素なもので、波乱万丈だったはずの人生は謎に包まれたまま。

その実像を明らかにした評伝が、本書『ポーランドに殉じた禅僧 梅田良忠』だ。

著者の梅原季哉(うめはらとしや)はあとがきの中で、〈こんなすごい人がいた、ということをとにかく伝えたかった〉と書く。
すごかったのは、なにも僧侶でスパイというもの珍しさだけではない。

1943年11月末から12月はじめにかけて、ソビエト連邦・アメリカ・イギリスの三国首脳がテヘランで会談をもつ。そこではソ連が、ドイツ降伏後の対日参戦をアメリカとイギリスに約束していた。
この機密情報を入手してブルガリアの日本公使館に伝えたのが、梅田良忠だったのだ。

にしても、である。日本人の僧侶が、そもそもなんでブルガリアにいたのか?

梅田良忠は1900年に東京・日本橋で、弁護士の息子として生まれる。
早くに父を亡くし、6歳で出家。中学から曹洞宗の学校に通った。
西洋文化にかぶれたバイオリンが趣味の青年は、1922年に大学を出て成人僧になるとすぐ、ヨーロッパへ渡る。
行きの船内で出会ったポーランド人と意気投合し、留学先をドイツから変更した梅田は、ポーランドの首都・ワルシャワへ向かう。

現地では大学で哲学を学び、その後ワルシャワ東洋学院教授に就任。
ポーランドの歴史で、初の日本語教師となる。

エピソードから垣間見える人柄も、経歴同様変わっているというか、癖がある。
たとえば、戦後にポーランド時代の教え子が、日本を訪れた時の話。ホテルをとっていた彼に〈何でそんなところに泊まるんだ。うちに来なさい〉と言った梅田。
その有無を言わさぬ世話焼きぶりを後に、〈私の支配者でした〉と冗談交じりに教え子に回想される。
それだけではない。
留学していた頃、古い友人で「日本野鳥の会」創始者でもある中西悟堂が送ってきた詩劇の草稿を、本人も知らぬ間にポーランド人と協力して翻訳。中西を原作者として、ワルシャワの劇場で上演する。
中西は舞台を見た捕鯨船の乗組員によって、それを知らされたという。
このよく言えば面倒見のいい、悪く言えばおせっかい焼きの性格が、梅田を思いもよらぬ世界へと導く。


1939年ナチス・ドイツの侵攻によって、ポーランドは崩壊。梅田も戦火に巻き込まれ、国外脱出を余儀なくされる。
ポーランドを出た後は、ブルガリアの首都・ソフィアで日本公使館の嘱託職員として各地の情勢を探る。
熱心な働きぶりは公使館からも評価されていたが、連合国側と通じている亡命ポーランド人との接触など不審な行動が問題となる。
味方である枢軸国陣営からスパイと疑われ、1943年には公使館を解雇されてしまう。

梅田は本当にスパイだったのか? そして、どうやってテヘラン会談の内容を知ったというのか?

著者は彼の足跡をたどるが、テヘラン会談の情報を入手したルートはなかなか見つからない。
それは、秘密保持を徹底していた証でもある。
梅田が第二の故郷であるポーランドを助けようと、スパイ紛いの行動を取った可能性は高い。でもよかれと思っての行為は、余計なお世話となってしまう危険を孕んでいる。
ブルガリアでも活動していたナチスの秘密警察に逮捕された日には、現地のポーランド人たちに迷惑を掛けてしまうかもしれない。だからこそ、細心の注意を払って行動していたのだ。

梅田の情報分析力の高さが、朝日新聞に寄稿したヨーロッパ情勢に関する記事から明らかとなるのは、現役の記者である著者ならでは。
それだけに限らず、第二次世界大戦下の諜報戦におけるさまざまな人間の暗躍が、各国政府の文書などの資料から浮かび上がってくる。
その中に特別な訓練を受けたわけでもない素人が、スパイ疑惑のある人間として登場するのだからすごい話だ。

学者としてポーランド文学の翻訳や歴史書など残しているものの、ヨーロッパでの業績が知られていないのは、あまりにも惜しい。
梅田のすごさを今に伝えようとする著者の試みが、読者にとって余計なお世話であるはずがない。
(藤井 勉)