又吉直樹は水嶋ヒロを超えた――『火花』を最初に文芸誌で誉めた評論家、語る
『火花』又吉直樹/文藝春秋


『火花』を最初に文芸誌で誉めたのは俺だから!!!


又吉直樹は水嶋ヒロを超えた――『火花』を最初に文芸誌で誉めた評論家、語る
(左)飯田一史さん(右)藤田直哉さん

藤田 まだまだ話題さめやらぬという感じですから、芥川賞受賞で、発行部数が200万部を超えた又吉直樹さんの『火花』の話をしましょう。

飯田 藤田君は文芸誌でも書いている純文学の批評家でもありますが、僕は純文学を追うのを学生時代でやめちゃっていて、ふだんは純文学を読みません(ほとんどSFとラノベとミステリしか読みません)。そういう人間でもおもしろく読めました。
つまりエンタメとして読んで「思ったよりアツくてよかった」と。

藤田 『火花』が雑誌に掲載された時には、1933年に小林秀雄、林房雄らが発刊した『文學界』が、創刊以来初めて増刷されたというとんでもない事態で、それだけで「火花」が文学史に残ってもおかしくはないと、正直思っています。

飯田 大正時代に1冊1円の文学全集を出版して売りまくった「円本ブーム」とかが教科書に載るわけだから、たしかに文学史に載ってもおかしくないですね。

藤田 同じ号にぼくも載っているので、ぼくのお蔭で増刷されたんじゃないか! って思っているのですが。

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藤田 ……それは嘘ですけど、ぼくは『文學界』の「新人小説月評」という、芥川賞の対象となる作品を全て読んで評するという欄を今年担当しておりまして、「火花」を「文学だ」と激賞しました。多分、文芸誌で一番最初に活字でやったんじゃないかな。


飯田 ここで藤田渾身のドヤ顔である。

藤田 だからぼくにコメント依頼が殺到するかな! って思ってたら、一件も来なかった。畜生と思いながら、世を呪って過ごしています。
 さて、本作のジャーナリスティックな側面と、中身の側面を両面から話していきたいのですが、まずは中身については、飯田さんはいかがですか。

品川ヒロシや水嶋ヒロの小説とは段違い!


又吉直樹は水嶋ヒロを超えた――『火花』を最初に文芸誌で誉めた評論家、語る
『KAGEROU』齋藤 智裕/ポプラ社

飯田 「芸人が書いた小説」と言っても、さすがに品川ヒロシが書いた『クローズ』のパクリみたいな小説とかとはレベルが違いますね。

藤田 「火花」は、芸人が描いた文章の中では、間違いなくレベル高い方に入りますよ。芸人だから売れるとか、成功するというわけでは、必ずしもないんですよ。
その誤解は、解いておきたい。で、ぼくは、又吉さんが、映画における北野武ぐらいの文学者に本当になってほしい。そしたら、「世間は商業主義だと非難する中、真価を認めていた人がいた。藤田である……」って、ぼくの名も上がるw

飯田 あと水嶋ヒロの『KAGEROU』と違うのもわかる!

藤田 水嶋ヒロは今や本の存在自体が『KAGEROU』みたいになっちゃってますが…… 出版されるまでは、本格SFとしての期待が、SFファンの間では高かったんですよ! 水嶋ヒロはSFを救うメシアだと本当に期待されていたんですよ!

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藤田 水嶋ヒロはおいておくとして、『火花』が巧妙なのは、一発屋でもいいように、タイトルが仕込んであるところですね。

飯田 ああ。そのへんが又吉が影響受けたっていう太宰治っぽい。
処女長編が『晩年』とかさあ。あざといw

藤田 そうそう。太宰と言えば北野武の映画で『みんな~やってるか!』の主人公を演じたダンカンを眠らせるために、太宰治の『走れメロス』を読ませるというギャグがあるんですよ。そのうち「メロス!」って言うだけでダンカンが寝るようになるw

飯田 そうだったっけ? ひどすぎるw

藤田 そうですよw 太宰といえば、綿矢りさも、太宰ファンでしたね。太宰の墓の前で泣き崩れているのをテレビ番組で見ましたよ。太宰の持っている「演技意識」を理解している二人だから、芥川賞というメディアイベントの当事者となりながら、同時にその構造を組み込んでいるかのように見える『火花』や『夢を与える』を書けたのかな?

飯田 太宰は俗情に訴える技術もある、文学シーンの空気をあるていど読んで書く技術もある作家だったので、参照項としては非常にいいんじゃないでしょうか。


藤田 太宰について言っておくなら、『走れメロス』はつまらない。ぼくのオススメは『晩年』に収録されている「道化の華」です。あれは、素晴らしい。「一人ニコニコ動画状態」ですよ。

飯田 僕は中学生のとき太宰が昔話のパロディをやった「お伽草紙」で読書感想文を書いたら「カチカチ山で読書感想文書くんじゃねえ」って先生から怒られて「こいつアホだな」と思った。

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飯田 又吉って太宰以外、誰かの影響あるんですか?

藤田 筒井康隆とか読んでますよ! どこまで好きかわかりませんが、『ダ・ヴィンチ』に筒井康隆について書いていました。


飯田 筒井も太宰も技巧派だけど読みやすい作家。そして中二心をわしづかみするタイプ。

藤田 ちょっと哀しみのある道化が好きなんじゃないですかね。憂いのある狂騒感、というか。
 ぼくはいつか筒井康隆さんの『虚人たち』とか『残像に口紅を』に匹敵する実験小説を又吉さんが書いてくれると信じていますよ! あれだけ売れた作家だからこそ行使できる「自由」がある。名前で買ってもらえる人だからできる実験を次々行って、日本文学史を更新してほしい。
それから、文学にお笑いを持ち込むだけでなく、お笑いに文学も持ち込んでほしい。文学をお笑いやギャグとしてもっと使ってほしい。文学って世間がマジメで尊敬すべきありがたいものと思っている一方で、普通に面白かったり、笑える部分も多いんですから、是非うまく紹介して、使ってほしい。

この設定で三浦しをんが書いていたら……


飯田 あとはそうですね、『火花』の設定で三浦しをんに書いてもらったら最高にBL臭のする小説になったんじゃないかと……。

藤田 たしかに、師弟愛の話なんですよ。語り手の主人公が「天才だ」「師匠」と仰いでいるけど、成功しないお笑い芸人の話ですよね。ダメ人間愛の話であり、無益なものを追及してしまう芸術への賛歌でもある。

飯田 主人公は「すごい」「すごい」って言ってるけど、師匠も弟子も売れない。客観的には彼らのやっていることは商業的には間違っていて、でも主観的には真実という。カルトの話ですよね。

藤田 弟子は、一瞬は売れかけますけどね。『火花』は「純粋さ」への賛歌でもあり、成功しなくてもなんとなく生きていくという、その肯定感。ぼくはあのラストで評価したんですよ。無益なものに賭ける純粋な天才って、だいたい死んじゃうじゃないですか。でも、あの終わり方は、ちょっと変わりながら続いていくという、うっすらとした肯定感。それがよかった。

飯田 死なないのはやはり又吉さんが愛好している『人間失格』から来たんですかね。「ただ一切は過ぎて行きます」みたいな。あれできれいにハッピーエンドになっていたら「エンタメじゃね?」って言われて賞レースからは脱落して終了だったところを、苦味をもって描いたのが、純文学っぽかったなと。

藤田 「純文学」として評価していいと思ったのは、表現のうまさなんですよ。比喩とか描写の巧みさ。芸人さんのネタ帳とかを想像しましたよ。お笑いって、言葉を研ぎ澄ます度合いが、現在では最も高いかもしれないジャンルじゃないですか。
 だから本気出されたら、文学はヤバいかもと思っていたんですが、いとも簡単にやられてしまった。もちろん、テーマや構造の複雑さや仕掛けなどは、他の作家の方が上だったりするんですが。

飯田 とってつけたような比喩とか不必要にこむずかしい表現ではなく、ちゃんと書き慣れていて、自分のことばになっている。序盤は若干「かっこつけすぎじゃないの」と思ったけど、読んでいるうちに気にならなくなった。

藤田 その辺りのこなれている表現に結構ぼくは驚かされまして。……元々、ぼくはお笑いが好きだから、感性がそっちよりなのかもしれませんが。
 文芸評論家の石原千秋さんが、産経ニュースの文芸時評で本作のギャグの一部を切り取って批判していたけど、あれはちょっとずるい。この小説でのあの人は、ずっとスベって失敗している人として書かれているわけですから。

『火花』は「芸能と文学」の関係を更新したか?


飯田 いちおう文学史的なことを言えば、落語家の三遊亭圓朝は二葉亭四迷による言文一致体の成立に寄与し、夏目漱石は三代目柳家小さんが好きで、たとえば『吾輩は猫である』は落語的な語り口が入っていたりするわけですよね。

藤田 ええ、明治初期の文学は、江戸文学の影響があって、笑いもあるし、文体も面白いんですよ。近代文学なんて、陰気で悩んでみんな自殺するんだろうぐらいの偏見が世間にはびこっていると思うんですが、坪内逍遥の『当世書生気質』とか二葉亭四迷の『浮雲』とか、ゲラゲラ笑って読めますよ。

飯田 お笑い(口承芸能)から小説が影響を受けたことは過去もあった。だけど今回はそういうお笑い的な語り口が文学に持ち込まれているかというと、そういうわけではない。
 芸能と文学の関係を更新したかと言われると、メディア露出とか部数的にはしたかもしれないけど、内実的にはしていないんじゃないか。

藤田 芥川賞がメディアイベントになったのは、石原慎太郎の成功が大きいと言われていますよね。石原慎太郎の小説と、石原裕次郎の映画スターへの売り込みを並行する、メディアミックスみたいなものを行って、「太陽族」とか、時代の文化を象徴するものにしたわけですよね。こっちの場合は、文学から芸能、そして時代への殴り込みのようなものですね。
 飯田さんの言う「内実的に」というと、具体的には?

飯田 圓朝と四迷、あるいは小さんと漱石のようなものではない。「既成の文学の文体で、お笑いの世界を描きました」だなあと。

藤田 文体の更新が起こったかというと、たしかにそこまでではない。小説の技法を新しく開発したわけでもない。「純文学」の最先端であるからには、そこまで又吉さんがチャレンジしてほしい。太宰治も、第三短編集の『二十世紀旗手』あたりでは、作者の精神の健康を疑うぐらいめちゃくちゃな方法の冒険してますよ。技法の実験なのか、マジでヤバいのかわからないぐらい。
 又吉さんにも文学のもっとヤバい深い沼の、誰も到達できていないところまでいってほしいですね。メディアの構造それ自体を使いながら、それを批評的に、文学に昇華する書き手――太宰治や筒井康隆の――として、新しい何かを大がかりにできる書き手として、期待しています。そして、長く書き続けるために、太宰が入水自殺を遂げた玉川上水には絶対に近づかないでほしいw