あらためて考えてみると、私たちは映画やマンガなどを通して、膨大な「核のイメージ」に触れてきたことに気付かされる。手塚治虫の「鉄腕アトム」に代表される原子力によって動くロボット、核の影響によって現れる怪獣「ゴジラ」、原爆による病によって悲劇的な別れを経験する男女、世界滅亡のために原発を襲う/核ミサイルを狙う悪の組織……と枚挙にいとまがない。最近で言えば、「核戦争後の荒廃した地球」という舞台設定を持つ『マッドマックス』シリーズなども同様だ。さらには「とにかく強そう」なイメージを付与するために、「核分裂投げ」「原子力発電パンチ」などと格闘マンガの必殺技名に使われるに至っては、核はもはや「記号」でしかない。そして、いつしか核の危険性は漂白され、「消費」の対象となっていく──。
カルチャーに見る「核受容の歴史」
カルチャーにおける核の描き方の変遷を追うことは、その時代時代を生きてきた人間が、どのような感情でもって核を受容してきたかを辿ることである。それは放射能への恐怖かもしれないし、原発がもたらすと思われてきた「明るい未来」への希望かもしれない。
かつて日本は、核の平和利用について、「被爆国だからこそ(その経験を生かし)原発を推進する資格がある」「被爆国だからこそ(その危険を熟知しているのだから)原発を手放すべきである」という、立脚点は同じながら異なる立場から議論されてきた。本書が指摘するのは、3.11以降の原発をめぐる議論が、それと同じ形で繰り返されているということである。「福島の原発事故を経験したからこそ、今度こそ安全に運用していくことができる/原発を手放すべきだ」と再び平行線を辿る2つの意見の行き着く先は、漠然と原発の安全神話信じてこられた「3.11以前の日本」なのだろうか?
『核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』は、原発をめぐる議論に、新たな視点を提示する一冊となるはずだ。
(辻本力)