プロ野球の世界で27年間、中日、楽天などで活躍した山崎武司氏に今回はインタビューしてきました! 山崎氏は元プロ野球選手であるが、取材場所はなんと富士スピードウェイ。
なんでも山崎氏自身がレースに出場するそうだ。
山崎氏はレースだけでなく、ミニカー収集やラジコンを趣味に持つなど根っからの車好き。そこで本業の野球について聞く前に、車好きになったきっかけを伺った。
「父や兄が車好きだったのも影響していますね。小さい頃からミニカーが大好きで、買い物に行くたびに『トミカを買って』とお袋にねだっていました」

【野球が唯一苦手だった!? 山崎氏の学生時代】


さてそんな山崎氏の学生時代。さぞ野球も得意だったのではと思ったが、そうではなかったと語る。例えば中学時代、陸上や相撲で全国大会に出場するなど(特に相撲はわずか数日の練習で県大会で優勝したそう!)好成績を残したが、野球では無名の存在だった。山崎氏は「唯一、野球が上手くいかなかったね。中学時代は本塁打数がゼロだし」と当時を振り返る。

だが山崎氏は名門として知られる愛工大名電の野球部に入った。その理由を聞くと「兄が教職課程で名電に居たとき、兄の担当教師が倉野さん(注:倉野光生。現在の名電野球部監督)だった縁で、セレクションを受けたところ合格したから」とのこと。
名電に入った山崎氏は才能が開花し、高校通算56本の本塁打を記録するなど活躍。晴れて地元の中日ドラゴンズに2位指名で入団した。


しかしドラフトではこんな裏話がある。元々巨人ファンだった山崎氏は巨人から「阿波野秀幸の外れ1位で指名する」と言われていた。にもかかわらず、結果的に巨人は木田優夫氏を指名したのだ。そのため、「行きたくない中日ドラゴンズに指名されちゃった」というのが率直な気持ちだったと振り返る。
この一件があったため、巨人と対戦するときは「絶対に負けたくない、絶対に打ってやろう」という気持ちで奮起したそう。

【中日時代の豪快なエピソード】


そんな経緯で中日に入団したが、1996年に松井秀喜氏との争いを制して本塁打王のタイトルを獲得するなど活躍。中日時代の山崎氏には「ジャイアン」とのあだ名通り、豪快なエピソードが多い。ここではそのエピソードの一部を紹介していこう。
野球が唯一苦手だった!? 山崎武司氏が語った野球人生とは
現役時代のあだ名は「ジャイアン」

・骨折した状態で本塁打(1994年)
先日引退を表明した山本昌投手が印象に残っているというこの本塁打。山崎氏はそのときの様子を振り返ってくれた。
「阪神にいた湯舟投手の球を振ったとき、手に電気が走りました。一回折ったことのある箇所だったので、すぐ折れたなと分かりました。手が痛いからそのまま見逃し三振しようと思ったんですが、フルカウントから来た球を思わず振ったら決勝本塁打になってしまったんです(笑)。
当時中日の監督だった高木さんに折れたかもと伝えたところ、『なに言ってるの、ホームラン打ったのに』と言われましたが、病院行ったらやはり折れてましたね。」

・ガルベスとの大乱闘(1996年)
審判に剛速球を投げつけるなど"最狂"と恐れられた元巨人のバルビーノ・ガルベスにも、猛然とやり合って大乱闘になっている。この乱闘には伏線があり、自軍の投手が巨人落合氏に危険球を投げていたらしい。次の回の先頭打者が山崎氏だったこともあり、「俺に危ない球が来るかも。もし来たらいきますから」と周囲には伝えていたと振り返る。山崎氏の予想通り、ガルベスのボールが山崎氏の頭付近に来たため、大乱闘となったのだ。

日本の野球を外国人選手に舐めてほしくないという気持ち一心でしたね。そのため自分が乱闘するときは外国人とばかりだった気がします」と山崎氏。確かに、楽天時代にもパウエルやタフィ・ローズと乱闘となっている。
野球が唯一苦手だった!? 山崎武司氏が語った野球人生とは
山本昌氏と山崎氏

・"間違え"から好成績に(1996年、2001年)
1996年にHR王を獲得したが、実はこの年、メーカーの手違いからバットのインチがいつもより長かった。長さが間違っていると気づいたのがキャンプ中盤だったこともあり、元のバットに変えないままシーズンでも使用。そうしたら、いつもより長いバットが幸いし、アウトコースのボールを容易く拾えたことで本塁打量産に繋がったと語る。

また、2000年にも似たエピソードがある。
オープン戦でスパイクを忘れて星野監督に怒られたときに「いや、1年間スパイクなしでいくんですよ」と出任せに言った。その言葉どおり、本当に1シーズン通してスパイクを履かずにプレーしたところ、なんと.311の高打率をマークしてしまったのだ。

【パ・リーグへと移籍】


その後、中日の新監督に2002年から就任した山田久志氏と折り合いがつかず、パ・リーグのオリックスへトレード。そしてトレード先のオリックスの2年目にも監督と揉めたことで、現役を辞める覚悟があったという。
そのため、オリックス退団後に所属した楽天が誕生したときも「自分には関係ない話だとまったく興味なかったですね。当時は海外をいろいろ旅したり遊んでました」と振り返る。

【ノムさんとの出会い】


しかし、楽天初代監督となった田尾氏などからのオファーもあり、楽天に移籍。その楽天の一年目には、田尾氏の指導の下で好成績を残した。しかしその田尾氏は1年で解任され、野村克也氏が楽天監督に就任することになる。
野球ファンならば、野村氏との師弟関係をご存知かと思う。しかし山崎氏は、野村氏の監督就任を聞いた当初、「性格が合わないだろうから終わったな。どうせ揉めるなら1年間楽しくやって名古屋に帰ろう」と思ったらしい。

だが蓋を開けてみると、野村氏の考えに共感する部分も多く、とあるインタビューでは「野村野球は単純明快、シンプルに考えられて野球が楽になった」とまで山崎氏は語っている。野村野球が単純でシンプルではある理由をこう説明してくれた。

野村さんは根拠さえしっかりしていれば、結果に対してあまり文句を言いません。根拠を持ったヤマ張りが外れて三振したなら仕方ないじゃんと単純明快な答えを貰ったんで、凄くプレーしやすかったです」

【山崎武司氏にとって野球とは?】


その後、楽天を退団した山崎氏は中日に復帰。最終的に27年もの間、現役でプレーした。しかし著書を拝見すると「野球に関しては否定の塊」、「野球に人生のすべてを捧げられない」とも書かれていた。
確かにレースなど野球以外の趣味も豊富な山崎氏。彼にとって野球とはどういう存在なのだろうか?

「ここまで野球に対して、真面目に向かっていってない人間は俺くらいしかいません。だって野球好きじゃないもん(笑)。現役の時も面白くないとずっと思ってました。でも野球の神様は27年間生かしてくれた訳ですから、なんでだろうなと思いますよ」
もしかしたら『俺は野球小僧だ』という気持ちを認めたくないんだろうね。自分はレースなど色々やっていてこその野球だと思っていたい人間で、野球バカにはなりたくないという想いがありますから」
野球が唯一苦手だった!? 山崎武司氏が語った野球人生とは

しかし野球に関して、最後にこのようにも語ってくれた。
「でも小さい頃から野球やってきたし、野球で生かしてもらってここまで来たわけだから、野球には感謝したいですね。『たかが野球、されど野球』と思っています。」

野球ファンとしては従来のプロ野球選手の枠組みを超え、レースなどにチャレンジする山崎氏をこれからも応援していきたい。
しかしやはり、再びユニフォームを着て、中日や楽天を率いる姿も見てみたいです!
(さのゆう90)
「さらば、プロ野球~ジャイアンの27年」
「進化」
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