イチローといえば、日米で数々の大記録を残した人物として知られています。そんな彼がブレイクしたのが1994年。
この年、若干20歳のイチローは130試合制でシーズン210本安打を放ち、日本新記録を達成しました。1994年、史上稀に見るペースで打ちまくっていたイチローを振り返っていきましょう。

【記録更新のペースが速すぎ!】


それまでのシーズン安打のパリーグ記録は、シーズン150試合制だった1963年、元南海の広瀬叔功がマークした187本でした。そしてシーズン安打の日本記録は、1950年に「ミスタータイガース」藤村富美男が記録した191本でした
これを1994年のイチローは驚異的なペースで軽々超えていきます。イチローはなんと115試合目で広瀬が作ったパリーグ記録を更新すると、次の試合(116試合目)でも4本の二塁打を放ち、藤村の日本記録をも一気に抜いてしまったのです。
記録更新へのプレッシャーがなく、一気に記録を塗り替えていったのがこの年のイチローの大きな特徴。シーズン200本安打も、197本で迎えたロッテ戦で3打席連続ヒットを放って達成しています。

【ほぼ毎日ヒットを打っていた!】


イチローはほぼ毎日ヒットを打っていたといっても過言ではありません。イチローは130試合のうち、ノーヒットだった試合は13試合しかありません。2試合続けてノーヒットだったもの、シーズン最終盤の127~128試合目のみでした。
特に絶好調だった時期は、18試合連続安打→(1試合のみ無安打)→23試合連続安打→(1試合のみ無安打)→12試合連続安打→(1試合のみ無安打)→23試合連続安打も記録しています。

【シーズン終盤まで4割も見えていた】


このようにヒットを打ち続けていたイチローは、当然打率もかなりの数字を残しています。115試合を終えた時点で.395、123試合を終えた時点では.393でした。
この時点での打率は、バースの持っていた.3885を上回る日本記録です。シーズン200本安打を既に達成していたこともあり、残り試合をすべて欠場するという選択肢も当然ありました。

しかし、イチローは試合に最後まで出続けたのです。この打率の記録がかかっていても試合には欠場しない姿勢は、42歳を迎えた今のイチローにも共通している点です。

結局イチローはシーズン最終盤に調子を落とした(ラスト7試合でノーヒットの日が3日)ことで打率が下がってしまい、パ記録となる.385に終わってしまいましたが、このような野球に対する姿勢を20歳で持っていたことは、特筆すべき点です。


【イチローのヒットゾーンは】


1994年のイチローのヒットを見てみると、バントヒットが2本と少ないながらも内野安打が33本と、両リーグダントツの数字を残しています。このときから内野安打でもヒットを稼げるというスタイルを確立していたことが分かります。
また、外野に飛んだ安打の方向を見ると、ライト72、センター53本、レフト52本と広角に打ち分けていました。

【2ストライク後も高打率】


2ストライクと追い込まれると、通常打率は大きく下がってしまいます。打率3割以上を打つような大打者でも、2ストライク後の打率を見ると2割前半であることが大半です。
しかし、この年のイチローはなんと.379という信じがたい成績を残しています。ちなみに1985~1994年の10年間で、2ストライク後の打率が3割を超えた打者は13人のみ。 .350以上に限ると、1985年に落合博満が残した.374のみでした。

【唯一、苦手としたチーム】


死角がないように思われるイチローですが、唯一ともいえる弱点がありました。
西武.369、近鉄.386、ロッテ.443、日ハム.459と打ちまくっているのですが、ダイエーだけ.268と抑え込まれていました。ダイエー戦で成績を残していれば、初の4割打者の誕生を見られたかも?

1994年以降もイチローは大活躍。
日本では1994年からメジャー移籍までの7年間、連続して首位打者になりました。そしてメジャーでも移籍初年度に首位打者、2004年にはアメリカのシーズン最多安打記録も更新しています。
そして、イチローはここまでメジャーのみで2935本もの安打を放っています。メジャー3000本まで残り65本で迎える来シーズンにも目が離せません!
(さのゆう90)
ベースボールアルバムNo.119 イチロー 新打撃王誕生! (ベースボールアルバム)
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