橋本真也と小川直也。この二人をプロレス界で語るにはあまりにも複雑な関係。
というのも、ライバルとしてしのぎを削り、潰し合いをし、最期は盟友として共闘してゆくという少年漫画さながらの関係であるからです。この二人が90年代末期から2000年代前半のプロレスを世間に届け、お茶の間にプロレスの話題を提供し続けました。

小川直也のプロレスデビュー戦は橋本真也


この二人の初遭遇は1997年、小川直也が柔道引退後にプロレス転向を表明した時から。バルセロナ五輪で銀メダルを獲得した彼のプロレス転向は、育成係にアントニオ猪木が付いたこともあり、大きな話題になりました。
この小川のプロレスデビュー戦の相手を務めた男こそが、当時IWGPヘビー級王者として君臨していた橋本真也だったのです。

試合内容は橋本の蹴りに小川が怖々しながらも、柔道家時代に得意としていた大外刈りの変形であるSTOを橋本に決めるなどして見事にKO勝ち!

2回目の対戦は橋本真也の勝利


この試合で敗れた橋本は一ヶ月後、自ら持つIWGPヘビー級王座をかけて小川と再戦します。橋本はチョップや蹴りを何度も見舞い、最後はダウンしかけた小川の側頭部への蹴りでKO勝ちしました。

3回目の対決 いつもと様子が違った展開に


この二人が再び交わることになったのは1999年1月4日。この日は新日本プロレス恒例の東京ドーム大会でした。
2人の再戦が発表された後、小川がルールミーティングをすっぽかしたり、猪木がガチンコを示唆したりと試合前から不穏な空気に。

そうして始まった試合当日、リングに入場した小川は、以前と風貌が明らかに変わっていました。柔道着を脱ぎ120kg近くあった身体はかなり絞られ、手にはオープンフィンガーグローブを付けており、かなり"危ない"目つきです。
そして橋本が入場すると、小川はマイクを取り「橋本!死ぬ覚悟があるのなら、リングに上がって来い!」とマイクアピール。以前と全く別人になった小川直也がそこにいました。


試合が始まると、そこには打撃を怖がっていた小川直也の姿はなく、自らジャブを使い、ローキックで橋本を攻撃してきました。面を喰らった橋本は、小川の打撃を無防備に受け続け、たまらず小川にしがみつきます。
しかし、小川はしがみついた橋本の後頭部に対して、お構いなしにパンチや肘打ちを連打。この頃から観客席も「いつもと様子が違う」という不穏な空気に変わっていきました。

3回目の対決は大乱闘に発展


レフリーがダウンで不在の状態でも橋本を一方的に攻撃し続ける小川。これを見かねたリングドクターやセコンドが橋本に駆け寄り、状態を確かめる中、攻撃を止めた小川がマイクを取ってこう叫びます。
「もう終わりかよ! オイオイオイ、冗談じゃねえぞ、オラ! 新日本プロレスのファンの皆様、目を覚ましてください!」
そうマイクでアピールすると、リング上を飛行機のポーズでぐるぐる回る小川。このように挑発をしていた小川に対して、新日本プロレスのセコンドがリングへ雪崩れ込み、双方のセコンドを巻き込んだ大乱闘が始まってしまいます。
さらに試合後、このカードを組んだ一人である長州力がリング上の小川に対して「これがお前のやり方か?」と言い、ビンタした場面もありました。

橋本は会見で「絶対に許さない。背後にいる人間も含めて絶対に許さない。」と吐き捨て、小川との間に大きな因縁が生まれます。

引退をかけて小川に挑んだ橋本~4回目の対戦


あの不穏試合から10ヶ月後、再び両者は対戦。1月の不穏試合の決着戦と銘打たれた4回目の対決は、橋本にとって名誉回復をするために勝利が義務付けられたものに。
しかし、橋本は序盤はキックで小川を追い込むも小川にSTOを連発で喰らい、最後はグロッキー状態になり敗戦。
橋本はこの敗戦で名誉回復どころか、地に落ちました。

負けたら橋本は引退 5回目の対戦


そして2000年、4月7日に東京ドームで5回目のシングル対決が行われることになります。この試合では、橋本が小川にシングル対決を求める際に「引退をかけて戦う」と宣言したことで、「負けたら引退」と銘打たれました。

坊主頭にした橋本は水面蹴りからの奇襲を仕掛けると優勢に試合を進め、小川を追い込みますが、序盤は完全に封じ込めていたSTOを6連発で喰らい無念のKO負け。橋本はその場で引退に。この試合はテレビ朝日系列で生中継され、視聴率は平均15.7%、瞬間最高視聴率は24%を超え、大きな反響を呼びました。
一度は引退した橋本ですが、その後、テレビ番組の企画で橋本ファンの兄弟の現役復帰を願う声に応え、橋本は引退を撤回し復帰を果たします。

ZERO-ONEで合体した橋本と小川


復帰した橋本は、新日本プロレス内に新たなる組織「ZERO-ONE」を結成しようと動きますが、長州力らの反対に合い、2000年11月13日付で新日本プロレスを解雇に。そこで橋本は「ZERO-ONE」という新団体を旗揚げし、三沢光晴率いるNOAとの対抗戦に入ります。

一方の小川直也も、師匠アントニオ猪木との路線対立などに直面していたため、橋本の新団体に乗り込み、三沢光晴との対決を求めます。しかし三沢は、小川をプロレスラーとしては評価しておらず、対決を拒否。三沢光晴との対決を実現させるために、小川はなんと橋本と手を組み、タッグを結成したのです。彼らのタッグは「OH砲」と呼ばました。

橋本と小川はタッグながら、三沢光晴との対決を実現させます。
三沢光晴とのタッグ戦では敗れましたが、それ以降もタッグを継続。試合を重ね、合体技として「刈龍怒(かりゅうど)」(小川のSTOと橋本の水面蹴りを合わせた合体技)、「オレごと刈れ」(ジャーマン・スープレックスをかける橋本に相手ごとSTOをかける技)といった技も開発していきました。積年のライバルは盟友へと変わっていったのです。

ハッスル参戦と橋本真也の死


2004年からは「ハッスル」に橋本と小川は参戦。高田延彦が扮する高田総統らとのマイクアピール合戦や、アフロのカツラを被って橋本が登場と、今までのプロレスよりもエンタメ要素を強調する形になりました。
そのため、従来のプロレスファンからは冷たい目を向けられましたが、橋本も小川もハッスルを広めるために奮闘。小川は橋本と開発した「ハッスルポーズ」(「3、2、1、ハッスルハッスル」と叫びながらポーズを決めるもの)を会場内外で行い、宣伝に努めます。

ハッスルポーズで人気が出た小川とは対照的に、橋本は諸問題の積み重ねから自らの団体ZERO-ONE崩壊を宣言、負債は全て自ら被ることに。
そしてそれに追い打ちをかける形で2005年7月11日、滞在先で倒れて救急車で搬送。脳幹出血で午前10時36分、病院で死亡が確認されました。

小川と橋本の絆


橋本の葬儀は7月16日に行われ、1万人以上が参列に。武藤が葬儀場の階段に座り込んだまま立ち上がれなくなったり、蝶野が人目をはばからず涙に暮れるなど、多くの人がその別れを惜しんでいました。

そして小川は、同年大晦日の「PRIDE男祭り」に参戦し、吉田秀彦との対決の時、入場曲に橋本の入場テーマである「爆勝宣言」を流して登場しました。
観客からはハシモト(またはオガワ)コールが生まれ、それを聞いた小川が、感極まり、表情を崩した場面は名シーン。
試合では吉田秀彦に敗れたものの、序盤に骨折したにもかかわらず試合を続行し、ハッスルポーズまで決めた小川に対しファンからは温かい声援が送られました。

橋本と小川は出会いこそ因縁めいた出会いでしたが、戦いを通して互いを認め合っていきました。もうこの二人のタッグであるOH砲、そしてシングルでの対決は見られなくなりましたが、戦いから友情が生まれた名コンビであり90年代末から2000年代にプロレス界に世間に熱を与えてくれたのです。
(篁五郎)
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