利益優先で安全性を軽視したことによる事故……といえば、セウォル号事故が記憶に新しい。このセウォル号事故と、違法に改造、経営陣の判断ミスといった部分でも共通点のある、1995年6月にソウルで起きた三豊百貨店の事故はどうだろうか。

当時、この事故は多くの人を震撼させた。建物が揺れ始めて、わずか数十秒の間でビルが崩壊したのだから……。また、10日以上も経ってから生存者が確認される奇跡の生還も話題になった。今回はこの事件をあらためて見てみよう。

三豊百貨店建築当時の背景


三豊(サンプン)百貨店崩壊事故は、1995年6月に韓国のソウルで起きた事故である。三豊百貨店は、1989年12月にオープンし、建てられてからあまり時間が経っていない豪華なビルであった。江南に建てられたこの高級百貨店は、当時、売上高も業界1位を誇り、まさか崩壊事故のような大参事が起きるとは誰も予想していなかった。

三豊百貨店がオープンした1989年と言えば、ソウルにロッテワールドが建てられた年でもある。その前年の1988年には盧泰愚大統領が就任し、ソウルオリンピックも開催された。1980年代の後半といえば、ちょうど日本ではバブル経済の頃である。

三豊百貨店崩壊事故の概要


三豊百貨店の崩壊は建設後、わずか6年で起きてしまった。1995年6月に起きたこの事故で死者502人、負傷者937人、行方不明者6人という悲劇がもたらされた。その日は暑く、室温は30度を超えていたにも関わらず、エアコンは故障のため使用されていなかった。だがエアコンが使用されていなかったのは故障のためではなく、他に理由があったからだ。


百貨店は通常どおり営業を行っていたが、前日には5階の天井に異常が見つかっていた。そして当日の朝には5階のひび割れが大きくなっていることが確認されていたのだった。そのため百貨店の経営陣たちが緊急会議を開き、当日の営業について論じられたのだが、結果的にはそのまま営業されることとなった。

事故当日の午後3時、専門家たちによって危険を警告されたが、閉店時間までもう少しということもあり、結局、営業を続けることになった。そして、その決断が悲劇を生むことに。
午後5時50分、突然、百貨店の5階の天井が崩れた。
直後に建物全体が揺れ始めると、多くの人達が逃げるまもなく、ビルは45秒というわずかな時間で崩れ落ちたのである。

三豊百貨店崩壊事故の経過と生存者の奇跡


通常、このような大事故が発生した場合、「72時間の壁」という言葉がよく使われる。災害後、72時間を過ぎると急激に生存の可能性が低下するということを指して言う。何も口にせずにいるのは72時間が限度となることが多いからだ。ところが、この韓国の百貨店倒壊の事件では奇跡が起きた。多くの死傷者が出たにも関わらず、事故後10日以上も経ってから生存者が3人も救出され、話題になったのだ。

奇跡的に救出された3人は、瓦礫の中に閉じ込められたまま、運良く流れ込んできた雨水などを口にし、無事に生き延びることができたという。
最後に救出されたパク・スンヒョンさんの場合、建物崩壊から17日も経って助け出されたのである。まさに奇跡と言えるであろう。なお、互いの姿を見ることはできなかったものの、お互いに近くに閉じ込められていたため、瓦礫を叩いて生存を確認し、コミュニケーションを取りあっていた。この奇跡の生還は人々に感動を呼び、日本でも話題になった。しかし、同時に、建物の欠陥や危険性が浮き彫りになり、注目を集めることになったのである。

三豊百貨店崩壊事故はなぜ起きた?


この事件、一番の原因は建物の構造に欠陥があったことだが、なぜ構造に欠陥が発生したのだろうか?

第一に質の悪いコンクリートが使用されていたこと。
そして、もう一つ。三豊百貨店は最初から百貨店として建設されたビルではなかったいうことがあげられる。もともとはオフィスビスであったものを建設の途中で百貨店として使用されることに変更。中央にエスカレータが必要となり、本来必要とされる柱が取り除かれたり削られたりした。さらに、屋上に大型冷蔵装置を設置することになったため、強度に問題があったビルは重量に耐えることができず、屋上から崩れることになってしまったのだ。

また、事故直前に異常を発見した段階で何らかの対処を行うべきであったにも関わらず、百貨店の営業はそのまま続けられた。
もし、この段階で適切な処置を行い、営業を中止していれば、このような大参事が起きずにすんだであろう――