昨年末に曙vsボブ・サップなどがマッチメイクされ、話題をさらった格闘技イベント「RIZIN」。どうやらシリーズ化という形をとるようで、4月には愛知で第2弾が開催される模様。
なるほど、前身であるPRIDEと同じような形態を想定しているのだろう。

振り返ると、ゼロ年代の日本の格闘技界はPRIDEとK-1が二分するという状況であった。さらに、これよりもっと遡れば格闘技ブームの源流となる一つの団体に行き当たる。2002年に活動を休止した、前田日明率いる「RINGS」である。

何がどう源流なのか? 例えば91年よりRINGSに参戦した正道会館勢は93年で同団体を去ったが、その中で興行のノウハウを吸収した石井和義館長(当時)はK-1グランプリを立ち上げて手腕を発揮、メジャー化への道を突き進んでいくことになる。付け加えると、ピーター・アーツが初来日したリングはRINGSマットであった。

一方、「人類60億分の1の最強を決める」をキャッチフレーズに掲げる後期PRIDEを牽引したエメリヤーエンコ・ヒョードルやアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラを発掘したのもRINGSである。

中島らもから前田日明へ送られたFAX 「君には挫折する資格がない」


RINGSが旗揚げしたのは、1991年。それ以前に前田が所属していたプロレス団体「新生UWF」では、フロントの経理不正疑惑を前田が糾弾したことによりフロント側と選手側が対立。結果、フロントが全選手を解雇して崩壊という結末に至る。
そこから改めて選手が一丸となり新団体を旗揚げすると思われたが、今度は選手間で空中分解が起こってしまう。一説によると前田宅でミーティングをした際、前田が「俺を信用できるか?」と迫り、安生と宮戸が「信用できない」と返答したことを契機に頓挫したと言われている。最終的には、高田延彦率いる「UWFインターナショナル」、藤原喜明率いる「プロフェッショナルレスリング藤原組」、そして前田日明の「RINGS」の三派に分かれる結果となった。


比較的スムーズに新団体旗揚げの動きを見せたUインターと藤原組。Uインターには新生Uの選手の大半がスライド式に所属することとなり、藤原組には新生Uの次期エースと目されていた船木誠勝と鈴木みのるが所属。一方、RINGSに所属する日本人選手は前田日明ただ一人となってしまう。(のちにUインターから新人の長井満也が合流)

かつての仲間の寝耳に水のような動きの速さに、前田は困惑。当時を振り返り「引退も考えた」とは前田自身による回顧だが、ファンの前田を求める気持ちは本人の予想以上であった。
ある日、前田日明の自宅へ一通のFAXが届く。
送り主は、作家・中島らも。そこに記されていたのは、以下のメッセージだ。
「君には挫折する資格がない。日本中の若者が君を見ている。君が引退しようとか芸能界に入ろうとか言って頓挫してしまったら、若い子たちが人間が執念を燃やしても所詮こうなるのかと失望してしまう。だから頓挫する資格はない」

この檄に奮起した前田は、RINGS旗揚げに奔走することとなる。


“ひとりぼっちの船出”に理解者が集結


“ひとりぼっちの船出”と称された前田RINGSであったが、そのカリスマ性と一般知名度の高さにより前田を支援する人・企業は少なくなかった。

まず、異国の格闘家。日本人選手が前田ただ一人のため、人材の確保が急務であったRINGSだが、新生UWFにて対戦歴のあるサンボ界のトップ選手、クリス・ドールマンが前田への協力を表明。一度は新日本プロレス参戦が発表されていたドールマン率いるオランダ格闘家勢だったが、一転してRINGS旗揚げをサポートすることを明らかにした。ちなみに、92年にRINGS主力選手が参戦した「メガバトルトーナメント」決勝戦は、クリス・ドールマンvsディック・フライというオランダ勢同士の一戦となっている。

また、新生UWF放送を決定していたWOWOWだが、肝心のUWFが解散。結果、前田RINGSの放映をすることを決定している。
これにより、RINGSは強力な経済基盤をゲット。またオランダから参戦したディック・フライは、1993年のWOWOWイメージキャラクターに起用されている。

こうしてスタートしたRINGSが活動期間11年の間に残した功績を、駆け足で追っていきたい。

世界に張り巡られたRINGSネットワーク


RINGSの最大の功績は、「格闘技では生活できなかった世界中の格闘家に闘いの場を与えた」に尽きると思う。何しろ、団体名が「RINGS」なのだ。
「RINGSとはもちろん、格闘技の聖域であるリングのことです。語尾に“S”と付けたのは『世界中のリングをネットワークで結びたい』という願いを込めてのことです。
そしてもうひとつ、RINGSには文字通りの『輪』の意味があります」(前田日明がRINGS設立会見にて発言)
こうして、前田は自ら「リングス・ジャパン所属」を名乗ることとなる。そして2002年までにオランダ、ジャパン、ロシア、グルジア、ブルガリア、オーストラリア、イギリス、USA、ブラジル、リトアニアの10カ国がRINGSネットワークの傘下となっている。

“リングスが生んだ最高傑作”ヴォルク・ハンが断言 「私は前田の兵隊だ」


RINGSの最大のヒットは、1991年12月7日の有明コロシアムに初登場したヴォルク・ハンだろう。「リングスが生んだ最高傑作」の異名を持つハンだが、発見したのは前田自身。モスクワ・オリンピック村で視察した際に、その動きを見て自らの対戦相手として即決したという。そして、いきなり有明でのメインイベント相手として起用している。

ちなみに、ハンのバックボーンはロシアの軍隊用格闘技「コマンド・サンボ」。この格闘技の内容だが、前田は「戦場での“殺人術”と表現すれば適当かもしれない」と説明する。
空手の練習さえ法律で禁じられていたソ連にて、1985年以降はKGBだけにしか教えることが許されなかった格闘技がコマンド・サンボ。ハンは2年間の落下傘部隊での兵役後、この格闘技の教官に就いている。来日当時のハンの肩書きは、ソ連国家警察軍と国家防衛軍の教官であった。

果たして、初登場したハンの戦いぶりに観客は度肝を抜かれる。手首を掴みに行き、合気道のごとく投げては極め、また立ったままでも関節を極めてしまい、対戦相手を務める前田はきりきり舞いに。後にRINGSでメジャーとなるクロスヒールホールドを日本へ紹介したのも、この日のハンである。最後は大逆転の膝固めで何とか勝利を拾った前田だが、のちにハンとの対談でこんなコメントを残している。
「やられる技、やられる技、初めての技ばっかりで。俺、ロープエスケープがなかったら秒殺だよ。秒殺。1分もたずにやられちゃってるよ」

では、反対の立場からこの関係性を見てみよう。当時、ロシアではスポーツマスター制度が崩壊。年金がなくなり、裏稼業に手を染めるしか生きていけなかったであろう選手が大勢いたらしい。彼らはRINGSに参戦することによりあくまでクリーンに、自身の格闘術で生活する術を得たことになる。
ロシアで開催されたリングス・ロシア主催の大会後、恩義を感じたハンは「私は前田の兵隊だ、彼から行けといわれたら私はどこへでも行く」という言葉を残している。付け加えると「コマンド・サンボ」とは、ロシアの格闘技を日本へ紹介するに際し前田自身がネーミングした造語である。

格闘技を食える業界にしたのはRINGS


ゼロ年代にはK-1やPRIDEの台頭によって格闘技界にバブルが起こったが、RINGS誕生前の日本において格闘技のみで生活できる選手など皆無であった。世界チャンピオンクラスでも、アルバイトをするのが当たり前。

そんな格闘家に脚光を浴びる場を与えたのもRINGSである。まずは、前述の正道会館勢。“常勝軍団”として注目の的となっていた彼らだが、特に佐竹雅昭は新日本プロレスが食指を伸ばすほど話題の人物となっていた。
しかし、佐竹が参戦の場に選んだのはRINGS。黒いタイツとレガースを着けて闘う佐竹の姿は新鮮で、後にカーマン戦やゴルドー戦といった“夢の対決”が次々に実現した。

他にも、『グラップラー刃牙』のモデルとなった平直行、慧舟会の創始者である西良典、95年にヒクソン・グレイシーと対戦した木村浩一郎、シュートボクシングから岩下伸樹らが参戦。また「平さんと闘えるならRINGSに上がってもいい」と、シューティング(現・修斗)王者であった川口健次が発言するなど、初期RINGSの日本格闘技界での求心力は別格であった。

UFCの台頭によりバーリ・トゥードに対応


カール・ゴッチから受け継ぐ「キャッチ・レスリング」をバックボーンに持つ前田からすると、馬乗りになって相手を闇雲に殴り、技術の競い合いという方向でルール付けされない初期UFCは認められない大会であった。
とは言え、RINGSの強豪であるジェラルド・ゴルドーは第1回UFCに参戦し、決勝でホイス・グレイシーに敗退。また、ライバル団体「パンクラス」の外国人エースであったウェイン・シャムロックもホイスに敗北。

この状況を受け、遂にRINGSも“グレイシー狩り”へと動く。95年に開催された「バーリトゥード・ジャパン」に、前田の愛弟子である山本宜久を参戦させたのだ。1回戦でヒクソン・グレイシーと対戦した山本は、“命綱”としてトップロープを掴みながらフロントチョークでヒクソンを締め上げ、あわや落とす寸前まで追い詰めてみせている。結果的にヒクソンに逆転負けを喫した山本だが、「ヒクソンを最も苦しめた試合」として歴史に刻まれる一戦となった。

また、96年にはRINGS内でもバーリ・トゥード戦を決行。特に身長205cmの“柔術怪獣”ヒカルド・モラエスは山本を始めとするRINGSのレギュラーメンバーに連勝を重ねていくが、4戦目で今までは地味な存在であったグロム・ザザがモラエスを完封! 溜飲の下がる判定勝利を収めている。試合後、前田は「色々とやってきて、柔術家にはレスリングの技術が有効だということがわかった。最初からこうなると思ってましたよ。結果は最初から見えていた」と語っている。

そして98年、前田の弟子である高阪剛がUFC第16回大会に出場。ホイス・グレイシーを追い込んで名を上げたキモと対戦したが、高阪はそのキモを圧倒! この日を契機に高阪は「世界のTK」と呼ばれるようになり、またRINGSのバーリ・トゥードにおける劣勢は完全に覆されることとなった。

リングス・ロシアの尽力により、遂にアレクサンダー・カレリンに届く


98年、遂に前田が現役引退の意向を発表する。当初は引退試合の相手としてヒクソン・グレイシーが候補に上がり、契約寸前まで進んだらしい。
「たぶん、ヒクソンに提示したギャラは2億近かったと思う。どこも出してない額ですよ。で、ヒクソンは『オッケー』と」(前田による発言 KAMINOGEvol.29より)
しかし、土壇場でヒクソンは対戦相手に高田延彦を選択。97年にヒクソンに敗れた高田の敵討ち的意味合いでヒクソンとの交渉を続けていた前田であったが、高田が再戦を決意したことで前田がヒクソンと対戦する意味合い自体が消滅した。

その後、前田の引退試合の相手として浮上してきたのは、「霊長類最強の男」と呼ばれるレスリング界の伝説、アレクサンダー・カレリンであった。
しかし、これは簡単な話ではない。カレリンと言えば、グレコローマンレスリング130kg級で1988年、1992年、1996年とオリンピック三大会連続で金メダルを獲得した男。その上、ロシア連邦英雄を授与されており、ロシア国民の尊敬の対象ともなっているVIP中のVIPである。

この状況で前田のために力を尽くしたのが、リングス・ロシアであった。
「カレリンとなんてできるわけがないんですよ。あり得ないんだよ。俺が引退するっていうとき、『マエダ、引退するってホントか? 誰とやりたい?』『んー、カレリンみたいなヤツとできたら』って、『みたいなヤツ』って言っただけなのに、ホントにカレリンを引っ張ってきちゃったんだよ。『うわ、困ったな……』と思ったけどさ(笑)」(前田による発言 KAMINOGEvol.28より)

こうして、カレリンは生涯で唯一の他流試合(グレコローマン以外の試合)に臨み、前田に判定で完勝。世界最強の男に挑み、散る形で、前田は現役生活を終えている。

日本の格闘技界のピークの一つ 「KOKトーナメント」


99年、RINGSは「KOKトーナメント」の開催を発表する。優勝賞金は、総合格闘技史上最高額の20万ドル(約2310万円)。
この大会を機に、RINGSは旗揚げ以来のルールを大幅改正。特に革新的だったのは、団体の特徴でもあったロープエスケープを排除したことであろう。

このKOKトーナメントで気を吐いたのは、意外な伏兵であった。99年12月22日のBブロック大会にて、リングス・ロシアのアンドレイ・コピィロフと柔術の現役世界王者であったカステロ・ブランコの一戦が組まれている。
実力は認められているもののそれまで目立った活躍を見せられなかったコピィロフであったが、ゴングが鳴るやブランコを巻き込んでの膝十字固めでまさかの16秒殺! 万力のような腕力とあまりにもな極まり具合に、この一戦でブランコは引退を余儀なくされている。この番狂わせには前田も驚き、会場内も熱狂。しかも息一つ乱れてないコピィロフの余裕の表情に、RINGSファンは絶頂寸前であった。
喜びのステージは続く。同日に行われた2回戦に進出したコピィロフ、今度は対戦相手のリカルド・フィエートをなんと8秒殺! 2試合合わせて、試合時間はたったの24秒だ。

この頃、日本の格闘技界ではピークが2度起こっている。一つめは90分の死闘の末、桜庭和志がホイス・グレイシーを棄権させた「PRIDE GP 2000」。
もう一つは、この日のアンドレイ・コピィロフが起こした2連続秒殺劇である。

「俺はUWFでホントにクサッたけど、RINGSで救われたよ」(前田日明)


KOKトーナメントで輩出したアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラやエメリヤーエンコ・ヒョードルといったトップ選手がPRIDEに引き抜かれ、またWOWOWとの契約が終了するなど不運が重なり、RINGSは2002年に遂に活動を停止。そこから数年間、前田は隠居生活を送ることとなる。本人曰く、「ずっと釣りしてた」らしい。

しかし11年間にわたるRINGSの活動は、前田へ心の平穏を与えていた。
「俺はUWFでホントにクサッたけど、RINGSは俺の心の治療になった。RINGSで救われたよ」(前田による発言 KAMINOGEvol.39より)

UFCの最前線で活躍する選手(ダン・ヘンダーソンやアリスター・オーフレイムなど)を輩出。日本の観客層の大多数を占めるプロレスファンに格闘技の見方を紹介。他団体が踏襲する興行のノウハウを構築。行き場のない格闘家に戦いの場を提供。様々な面で格闘技ブームの源流となったRINGSの功績を、今回は駆け足で振り返った。
(寺西ジャジューカ)

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