そんな現在からすると信じられないが、92年バルセロナ、96年アトランタ、00年シドニーの3大会は、それぞれ金が3、3、5と、日本スポーツ界にとっては低迷期だった。
もちろん、その中でもバルセロナ・競泳女子の岩崎恭子「今まで生きてきた中で一番幸せです」、シドニー・マラソン女子の高橋尚子「最高に気持ちいい42.195kmでした」など、印象深い「金言」はあった。
では、ナンバーワンになれなかった銀メダリストによる「銀言」はどうだろう。ある意味、金メダリストより味わい深い銀メダリストの含蓄あるひと言を振り返ってみよう。
「日本に帰ってやりたいのは、練習です」
■バルセロナ・柔道女子48kg級 田村亮子(当時)
シドニー前の「最低でも金、最高でも金」、アテネ前の「田村で金、谷でも金」など、勇ましい「金言」ばかりが印象的な田村(谷)亮子。しかし90年代、国内敵なしだった田村はバルセロナでは銀、アトランタでも銀と、本領を発揮しきれなかった。敗戦後に飛び出したこちらの銀言を見るに、その負けん気とひたむきさは恐ろしいばかりだ。
「完敗です」
■バルセロナ・柔道男子95kg級 小川直也
低迷する日本勢の中でも、お家芸である柔道男子だけは別。バルセロナ五輪でも古賀稔彦と吉田秀彦が相次いで金を獲得。
そんな中、小川は日本柔道の大エースとして最終日に登場。順調に勝ち進むも、決勝でハハレイシビリ(EUN)の合わせ技に破れ、まさかの銀メダルに。後にプロレスに転向し、数々の挑発的な言動で「暴走王」と呼ばれた男らしからぬ、控え目かつ潔い敗戦の弁だった。
「私も人間だなと思いました。人間でよかった」
■アトランタ・柔道女子48kg級 田村亮子
バルセロナに続き、決勝でまったく無名の北朝鮮からの刺客ケー・スンヒに不覚をとり、またしても銀メダルに終わった田村。
「審判もドイエ(相手)も悪くない。全て自分が弱いから負けたんです」
■シドニー・柔道男子100kg超級 篠原信一
愛嬌のあるキャラクターで、現在バラエティで大活躍の篠原。だがオリンピックでは、柔道史上に残る「不運な」銀メダリストとして名が刻まれる。
決勝でドイエ(フランス)に内股透かしを決め、篠原はガッツポーズ、誰もが一本勝ちと沸き返ってところ、主審の判定はまさかの、ドイエの「有効」。その後、技を決めることができず敗れ去った篠原が発したのが、こちらの敗戦の弁だった。「世紀の誤審」に文句も言わず反省を怠らなかった篠原こそ、記憶に残る銀メダリストといえよう。
「めっちゃ悔しいですぅ~、金がいいですぅ~」
■シドニー・競泳女子400m個人メドレー 田島寧子
オリンピック史上、最も有名になった銀言。今回のリオ五輪の競泳男子の同種目で萩野公介が金を獲得した16年前、女子で最も金に近づいたのが田島だった。金のクロチコワ(ウクライナ)を、後半猛然と追い上げ、見事銀メダルを獲得した。
そのインタビューの際にいきなり飛び出したのがこちら。率直すぎるそのコメントは、2000年の流行語大賞にも選ばれるほど、一世を風靡した。なお、誰もが記憶に残る栄光の影で、表彰式で表彰台から落ちて足をねんざしたため、後の200m個人メドレーと400m自由形では精彩を欠いて予選落ち、というプチ不運があったことは、覚えている方は少ないかもしれない。
四年後の東京五輪では、おそらく過去最多を更新するであろうメダル数が期待される。その栄光の傍らで、どんな趣深い「銀言」が飛び出すか、地道にウォッチしていきたい。
(青木ポンチ)
※イメージ画像はamazonよりSPORTS Yeah ! (スポーツヤァ) No.002 2000年 10月5日号 田村亮子、成就 SydneyClimax シドニー五輪速報・田村亮子「金」/セリエA 2000-2001開幕・保存版特集 [雑誌] (SPORTS Yeah ! (スポーツヤァ))