毎年、その肩書きを持って多くの助っ人選手が来日するが、実際は「バリバリ詐欺」が多い。
近年の日米球界の年俸格差を考えたら、現役バリバリのメジャーリーガーが日本球界に来る可能性は限りなく低い。だからこそ、メジャーの巨額オファーを蹴って広島カープに復帰した黒田博樹は、ありえへん「男気」と称されたのである。
続々と大物メジャーリーガーが来日
だが、1995年だけは事情が違った。前年の94年8月12日から95年4月2日までの232日間に渡る、MLB史上最長のストライキの余波で移籍市場に異変が生じる。当時のメジャーリーガー平均年俸は約1億円、現在の約4億8000万円と比較すると、そこまで日米格差もなかった最後の時代。結果、ジャパンマネーと働き場所を求めた大物メジャーリーガーたちが続々と来日することになる。
ロッテの救世主フリオ・フランコ(ホワイトソックス)、長嶋巨人の新1番打者として注目されたシェーン・マック(ツインズ)。その中でも当時33歳のケビン・ミッチェル(レッズ)は別格だった。サンフランシスコ・ジャイアンツ時代の89年には47本塁打、125打点でナ・リーグMVPに輝いている超大物は、来日前年もストで中断するまでの成績は打率.326、30本塁打、77打点、OPS1.110という凄まじいもので、「史上最強助っ人」「ボブ・ホーナー以上の右の大砲」と日本のプロ野球ファンはその来日に心躍らせた。
ミッチェルの衝撃的なデビュー
とんでもない実績に加え、トラブルメーカーとして知られる荒くれ者。いったいどんな選手がやって来るのか? 1年契約の年俸4億円超えという、当時の日本では落合博満の3億8000万円を上回る史上最高額でダイエーホークスに入団したメジャー通算220発男は、身長180cm弱で体重は100kg以上のお相撲さん体型で春季キャンプに3週間遅れで合流。
「こいつ大丈夫か?」と誰もが疑いの目を向ける中、開幕の西武戦でいきなり初打席満塁弾というド派手なデビューを飾り、三塁コーチャーズボックスに立っていた王貞治新監督とハイタッチ。前途洋々のスタートと思いきや、開幕11試合目の4月14日近鉄戦で微熱を訴え欠場。
ミッチェルが起こした騒動の数々
さらに4月16日にも守備練習中に右ヒザをひねったことを理由に欠場。5月3日には幼児のようなデリケートさを発揮して、再び微熱で球場入りせず宿舎で静養。GW明けの7日には打撃練習中に右ヒザを痛め、またも欠場。12日からの対日本ハム遠征も右ヒザの故障を理由にキャンセル。しかし、福岡大学の外科医がMRIをとってみても異状は見つからず、困惑する球団サイド。「マジ、痛いんだよ」と納得のいかないミッチェルは、「セカンド・オピニオンのためにアメリカに帰りたい」なんて駄々をこねる始末。
当然のことながら瀬戸山球団代表とぶつかり、怒り狂った史上最強助っ人は5月26日にヒザの治療を理由に無断帰国してしまう。この時点で28試合に出場、6本塁打、19打点。その後、再来日して復帰第1戦の7月29日西武戦では5打数4安打の活躍。さすがメジャーリーガー……と思いきや、今度は9試合プレーしただけで、8月11日にまたもや帰国。
もはや「右ヒザを治して、すぐ帰ってくる」というミッチェルの言葉を信じる者は誰もいなかった。
金と共に去ったミッチェル
ロバート・ホワイティング著『世界野球革命』では、来日当初は日本野球に好印象だったミッチェルが、徐々に荒れ出すと福岡で試合前日の朝まで飲み歩き、最大のライバル西武戦の所沢遠征時には、横田空軍基地のクラブで飲みふけって雑誌『フライデー』に激写された様子が書き残されている。
結局、37試合で39安打、打率.300、8本塁打、28打点、OPS.920という中途半端な成績を残し、「世界の王」を欺き続けてマスコミから叩かれまくり、給料支払いを巡りダイエー球団と裁判沙汰になるオチまでつけて、ミッチェルは金と共に去った。
日本球界に史上最大の「バリバリ詐欺」をかましたお騒がせ助っ人は、アメリカに帰国後は糖尿病にも悩まされ、暴行による逮捕歴2回と相変わらずの迷走ぶり。あの喧噪から21年、トルネード野茂英雄が渡米して、ケビン・ミッチェルが来日した1995年は、日本における一種の「大リーグ幻想」が終わった1年として語り継がれることだろう。
(死亡遊戯)
(参考資料)
ベースボールマガジン冬季号 1995年プロ野球総決算
『世界野球革命』(ロバート・ホワイティング著/ハヤカワ文庫)