それでも、博多華丸・大吉が新人のように見えてしまうのは、長らく福岡のローカル芸人として活動していたためだろう。彼らの上京は2005年。全国区のテレビに出るようになり10年ほどしか経っていないのだ。
人気絶頂期に突然の休業
博多華丸・大吉は、大学の同級生として知り合い、アマチュアで活動を開始。その後、1990年に吉本興業の福岡事務所が作られるとオーディションを受け合格。当初は華丸・大吉を名乗り、のちに鶴屋華丸・亀屋大吉に改名する。当時の福岡には大きな芸能事務所が吉本しかなかったこともあり、2人はテレビ、ラジオなど多くのレギュラー番組を持ち、一躍福岡の人気タレントとなる。
だが、人気絶頂にあった1997年、大吉は1年間にわたり芸能活動を休業している。何か問題を起こしたわけではなく、とばっちりに近いものだった。詳細については、2014年放送の『笑いの金字塔 よしもと黄金列伝!』(読売テレビ)で語られている。
博多大吉、活動休業の真相
活動休業のきっかけは、ヒッチハイクをはじめとする『進め! 電波少年』(日本テレビ系)の成功を受けて、当時レギュラーを務めていた番組で「大吉がアメリカへ留学へ向かう」と発表されたことにはじまる。
この話は事前に事務所に伝わっておらず、所属事務所は「聞いていない」と激怒。だが、生放送で発表してしまった手前、行かないわけにはいかない。
当然その間の収入はなく、芸人として顔が知られているため、外出もできない。まさに飼い殺しだ。休業中のありあまる時間を使い、大吉はネタを作り、以降コンビにおけるネタ作り担当となったという。
博多華丸・大吉の東京進出
当時、華丸・大吉は月に50万円ほどの給料をもらっていた。若手芸人としては破格の待遇であるが、これは「どうせ福岡で終わるのだからせめて夢を見させてあげよう」という事務所側の配慮でもあったようだ。
ただ、事務所の人間から福岡芸人は、大阪芸人より格下に扱われ、大阪から芸人が来た時は楽屋を明け渡せと言われたという。番組では、「いつものように大阪の芸人さんが来られたぞ、どけと言われて、中学生のりあるキッズが来た時はツラかった」と大吉が笑いにしていた。
そんな彼らが東京進出のきっかけを決めるのは、同期のカンニング竹山や、後輩のヒロシが東京でブレイクしたことで、背中を押されたようだ。東京ではギャラは新人と同じ扱いであり、まさに裸一貫からの再スタートであったが、博多華丸・大吉は2014年に『THE MANZAI』(フジテレビ系)で、優勝を果たす。この瞬間こそ、芸歴20年を越えた彼らの真のブレイクだと言えるだろう。
※イメージ画像はamazonより博多華丸・大吉式ハカタ語会話