何を今さらと。

テレビドラマ界の希望
しかし、『逃げ恥』愛とか言っておきながら、正直言うと今まで『逃げ恥』を4回ほどしか観ていません。6話で初めて観て、それから毎週録画をはじめたけど8話くらいで何かの延長があって録画を失敗したりして。
でもね、まず『逃げ恥』のすごいところは、中盤を過ぎた6話から観てもドラマの本質をすごく楽しめたところだとおもうのです。
偽装結婚という特殊な状況下のお話でありながら、基本的にはベーシックなラブストーリーだし、主人公のモノローグも多くて話に入りやすい。もちろん、話をわかりやすくしたからといってドラマ自体が面白くなるなんてことはなく、それはもう、みんなご存知、新垣結衣と星野源という二人の役者の力がとても大きい。
主役の役者二人が役にぴったりで、その魅力をフル回転させ、さらには脚本が面白ければ、テレビドラマというものはこんなにも当たり前のように面白くなり、そして毎回上がる視聴率にも表れているように、世間も当たり前のようにドラマを楽しみまくるんだなあと痛感しました。この当たり前さは、日本のテレビドラマ界の希望です。とても癒されます。とても力になります。
というのも、ある程度の年月、映画やドラマ業界で仕事をしていると、作品の面白さとは別角度のいろんな事情でなかなか思うように作品をつくれないときがあります。
津崎平匡のキャラクター
でも『逃げ恥』を観ると逃げられなくなります。おおががりな海外ドラマやハリウッド映画ではなく、『逃げ恥』は日本のテレビドラマのド真ん中です。『逃げ恥』を観ていると、こんなにも当たり前のように面白いドラマがあるのだ、俺だって、俺が書くものさえ面白ければ、その面白さを磨いていけばなんとか生きられるかもしれない、とおもうのです。
そのとき、自分は面白くないかもしれない、自分は才能がないかもしれない、とは思わない。なぜか。それは、『逃げ恥』のもう一つの構造がそうさせてしまっています。
その構造とは、星野源演ずる津崎平匡のキャラクターにあります。
いまさら童貞ものかと思いきや、星野源という絶妙なキャスティングによって女受けだけでなく、彼が現実離れしたイケメンではないため俺受けもいい。(もちろん彼の芝居の力もあり)
女にとことん不器用な彼の姿とその被害妄想っぷりが心地よく、俺も仕事人間で、女には不器用すぎてモテないし、彼は俺自身だとスッと自己投影できる。
そして彼が仕事ができるという設定であることから、俺も仕事はできるが、女に不器用だ、という文脈に無意識に変換されていく。俺も彼のように仕事ができる男と勘違いしてしまう。おいおい。今年目立った仕事はあまりできなく、なかなか企画も進められず、いざ脚本を書けば自分の才能に限界を感じてばかりいる現実が反転され、俺は仕事ができる男だと無意識に思い込む。これ、ちょっと危ないんじゃないか。
しかも、俺は40歳の独身で彼女も長年しなくてモテないが、それでも童貞ではない。星野源の役は童貞だ。だから彼にすこぶる感情移入して彼の童貞的言動を笑っているとき、ちょっと彼を下にみている自分がいるのではないか。いくらなんでも俺はそこまでじゃないぜ、はははは、と。
ガッキー早くうう!と
しかもだ、そんな彼でもガッキーにかわいいとか言われている。俺、けっこう太っていてしかも恐い顔だから全然かわいくないけど、すげえたまにかわいいって言われたことあるし、ならば、俺でも、もう少し待っていればガッキーみたいな子が現れるのではないか、と。そんなガッキーこの世にいるはずもないのに。
さらには、最近自分は内田理央(通称だーりお)というタレントがわりとお気に入りなのだが、だーりおが『逃げ恥』に出てきても1ミリも惹かれない。だってこのあとガッキーでてくるもん、ガッキー早くうう!と、お気に入りのタレントぐらいでは全く歯が立たないレベルにまでガッキー(というかガッキー演じるみくりちゃん)の存在が大きくなっているのです。相当危ないよ、これ。
そう、『逃げ恥』とは俺みたいな人間にとって相当危ないドラマなのだ。こんなもの俺は観ちゃいけない。
ほら、また人のせいにした。サイテー。
『逃げ恥』の底力とは
閑話休題。
『逃げ恥』のことを考えると、強烈に忘れられない、ある場面を思い出す。
星野源とガッキーが部屋でたっぷりハグした後に、ガッキーは言った。「(セックスを)してもいいですよ」と。そして星野源はガッキーを拒絶した。そのとき、自分自身の感情が激しく揺さぶられた。彼の拒絶に強く同調しつつ、強く反発した。そして、なんだかよくわからない涙があふれた。それまで二人のやりとりにキュンキュンしまくり、それはもう、人が人を愛することの希望、戦争とかテロとか殺人とか腐った政治とか全部吹き飛ばす、これこそが世界の希望だとおもったのに、セックスとかいうどうでもいいことでその希望が全部壊された気がした。
俺はセックスなんてこの世からなくなればいいとおもっている。本当はそんなことおもってないのに。脚本を書けばついつい男女がセックスしてしまい周りに怒られるのに。いざ目の前の女子がセックスOK的な顔をしても(そんなこと何年に一度しかないけど)、絶対したくないのだ、いや、したいけどしたくないのだ。なんなんだ、これは。俺はいつからこんな大人になってしまったんだ。相手が合意の上ならやりたいときにやる、セックス最高、それが人間なんじゃないのか。
強烈な自己嫌悪と承認欲求とコンプレックスと寂しさと儚さでもう感情がぐちゃぐちゃだ。観た者をこんな感情にさせることこそ、二人の人間ドラマを真っ正面から切実に描いてきた『逃げ恥』の底力だとおもった。
全て自分次第
自分が映画やドラマの世界にしがみついているのは、一人でも観た人の心に何かを与える、さらに言えば、世界の希望を与える、そういう作品を世に送り出したいからなのかなとおもう。
『逃げ恥』からはいっぱいの世界の希望をもらった。それが何かで崩れるときもある。
また、時に『逃げ恥』はダメな自分を自己肯定させる麻薬になってしまうかもしれない。それでも、それを麻薬にするのか、発奮材料にするのかは全て自分次第なんだ。
そんな『逃げ恥』も今日で終わる。これからは俺たちの逃げ恥が始まるんだ。何だそれ。逃げるは恥だが役に立つ、その意味もよくわからない、教養のない『逃げ恥』初心者の自分だけど、やっぱり、どう考えても、俺は、『逃げ恥』が大好きだ。
とうのも単純な話、こんな偏屈な自分が世間のみんなと一緒に源ちゃんかわいい!とか、ガッキーかわいい!とか、 ひらまさ、バカ、何やってんだよもおおお、みくりちゃん、大丈夫、大丈夫だからそんな顔しないでえええ、とか一喜一憂できて、何か嬉しかったんです。すごく楽しかったんです。そしてそんな作品を世に送り出せる作り手になりたいと心の底から思いました。
ありがとう『逃げ恥』。最終回とても楽しみです。しかも半分くらいまだ観てない回あるし。やったあ! 逃げ恥はまだまだ終わらねえー、おまえもがんばれ、おれもがんばる。
(鈴木太一・ブログ)

プロフィール
鈴木太一(すずきたいち):映画監督・脚本家。1976年6月16日生まれ。映画監督篠原哲雄に師事。2012年に初の長編監督脚本作『くそガキの告白』で劇場公開デビュー。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭にて史上初の4冠受賞。近年の監督脚本作にテレビドラマ『みんな!エスパーだよ!』(テレビ東京/2013)、『PANIC IN』(BSスカパー!/2015)などがある。