90年代の日本球界を代表する若き二大スター、イチローは00年秋に海を渡り、松井秀喜も02年オフにニューヨークへと去った。そんな中、ずっと日本でプレーし続け、「サムライ」と呼ばれた男が小笠原道大である。
なんと3割・30本塁打を9度記録、本塁打王1回、首位打者2回、打点王1回。さらに日本ハム最終年の06年と巨人移籍初年度の07年に、セ・パ両リーグで2年連続MVPを獲得。06年の日米野球では、来日したメジャーの投手たちがWBC日本代表優勝メンバーの「オガサワラだけには打たせない」とガチンコ勝負を挑み、それに男は黙ってフルスイングで応えるガッツ。
あの時の背番号2は震えるくらい格好良かった。名実ともにイチローと松井が去ったあとの「00年代NPB最強打者」と言っても過言ではないだろう。
高校通算0本塁打に終わった小笠原道大
そんな小笠原も90年代は不遇の時代だった。89年に暁星国際高(千葉)に野球推薦で進学するも、「11人いた同級生で最も下手だった」と自著『ガッツ 魂のフルスイング』の中で自嘲気味に振り返っている。
しかも、2年時には2塁手から死んでも嫌だった捕手にコンバート。キャプテンを任せられるも、最後の3年夏の大会では2回戦であっさり敗退。当時の暁星国際高は男子校で、野球部全員が敷地内の寮住まい。周囲は木更津の山に囲まれた環境でひたすら野球に打ち込む、ハングリーな青春時代を過ごした。
ミート力には自信があったものの、高校通算0本塁打に終わった小笠原だったが、恩師・五島監督が「こいつは高校3年間で、ホームランを30本近く打ったんですよ」なんてとんでもないハッタリをかましてくれて、社会人野球のNTT関東に滑り込む幸運。
同年代のイチロー、中村紀洋、石井一久といった面々が高卒でプロ入りする中、小笠原は静かに社会人生活をスタートさせる。
のちの小笠原夫人、美代子さんと知り合ったのもこの頃だ。自著の中で照れながらその恋愛時代のエピソードに触れているが、当時20歳のガッツは手取り月給10万円をやっと越えるくらいで、年上の彼女(美代子さん)の給料日になると「何でも好きなものを食べていいよ」と食事をおごってもらう身分。
いつの時代も経験や金がない20代前半の男は地球上で最も無力だ。泣けるぜ……って仕事も適当で金欠のハタチのこの青年が、やがて球界を代表する4億円プレーヤーになるのだから人生は分からないものだ。
1996年、ドラフト3位で日本ハムへ
捕手として経験を積んだ社会人4年目の秋には、もしかしたら中日から指名があるかも……と事前に聞かされていたものの指名はなし。さすがに危機感を抱いた小笠原は、5年目となる来季がプロ入りラストチャンス。これから1年間は死ぬ物狂いでやってやると決意し、新日鐵君津の補強選手として出場した96年都市対抗野球で松中信彦とクリーンナップを組み、11打数5安打2打点の活躍。無事、96年ドラフト3位で日本ハムへ入団する。
プロ入りすると同じ年のオフにあの落合博満も巨人から日ハム入団。
だが初めてのキャンプでは守るポジションすら定まらず、「コンビニプレーヤー」と揶揄される便利屋ルーキー。
1年目は気管支ぜんそくに苦しみ、2年目は左手人さし指骨折と怪我に泣かされるも、骨折が完治しないまま代打本塁打をかっ飛ばす根性を見せ、「ガッツ」と呼ばれるようになる。
そして、落合が引退した3年目の99年に一塁固定されると打率.285、25本、83打点とブレイク。ベストナインとゴールデングラブ賞も受賞した。翌00年には3割・30本・100打点をクリア、同時にキャリア最多の24盗塁をマーク。ここからイチローが去ったあとのパ・リーグを同学年の中村紀洋や松中信彦とともに支えていくことになる。
落合博満との再会も
チームの北海道移転後は単身赴任生活を続けていた小笠原も三十路を過ぎ、日ハムの日本一を置き土産に07年には巨人へFA移籍。ラミレスとともに「オガラミ」として原巨人黄金時代を支え、14年から中日へ。
ここで40歳ガッツは、新人の頃キャッチボール相手を務めたあのオレ流落合と「GMと選手」という形で再会するのだから、野球人生は不思議なものだ。恐らく、ともにアマ時代は無名で社会人出身のパ・リーグ球団ドラフト3位入団という共通点からも、落合は小笠原に何らかの親近感を抱いていたのかもしれない。
90年代に無名高校や社会人で下積み生活を続け、20年前ひっそりとプロ入りした男は、00年代最強打者として通算2120安打を放ち、現在は中日2軍監督を務めている。
(死亡遊戯)
(参考資料)
『ガッツ 魂のフルスイング』(小笠原道大/KKロングセラーズ)
『週刊プロ野球セ・パ誕生60年 2002年』(ベースボール・マガジン社)