2015年放送のドラマ『下町ロケット』(TBS系)のナレーションに、元NHKの松平定知(まつだいらさだとも)アナウンサー(72)が起用された。松平本人も「驚いた」と語るほどの意外なオファーだったが、このキャスティングは見事に成功した。


ある年齢以上の方は、松平の声を聞けば1980年代~90年代の様々な事件を思い出すのではないだろうか。松平の声は、日本が経済的にもっとも勢いのあった当時の記憶を呼び戻す。

中小企業の奮闘を描いた『下町ロケット』には、日本人が突っ走っていたころの「声」であった松平のナレーションがぴったりとハマった。

――90年代前後の松平の活躍と、ふたたびナレーターとして人気を獲得している現状を見てみたい。

「こんばんはみなさん」でNHKの顔となるまで


松平は1969年、NHKへ入局する。最初に注目を集めたのは若手時代のラジオ番組だった。松平は、独特の倒置法を用いたしゃべりを駆使し、リスナーに印象を与えることに成功する。

「みなさんこんばんは」という言葉を、松平は「こんばんはみなさん」と言い換えた。それは、のちの代表番組『その時、歴史が動いた』オープニングでの、「こんばんはみなさん、松平です。『その時、歴史が動いた』。今夜は……」というフレーズへとつながっていく。

80年代に入り、活動の舞台をテレビに移した松平は、夜7時のニュースといったNHKを代表する番組のキャスターとして活躍する。90年代前半には、松平はNHKの看板アナウンサーとしての地位を確立した。


松平は、わかりやすさを重視するため、携帯音楽プレーヤーを「ウォークマンのことです」と商品名で説明したこともあった。公平性を保つため、NHKでは商品名を出すことは原則しない。

同時期、記者からキャスターとなって支持を得たのが池上彰だった。池上も、フリップ(NHKではパターンと呼ぶ)を本番中に書き直すなど、視聴者にわかりやすい解説で評価されていく。

松平と池上は、アナウンサー出身・記者出身という違いこそあれ、お堅いだけだったNHKを、視聴者重視に作り替えた2人といってよいだろう。日本航空123便が御巣鷹の尾根に墜落した事故の第一報は、池上が書いた原稿を松平が読む形で伝えられた。


ただ、酒が飲めない池上に対し、松平には酒癖が悪くキレやすい部分があった。

タクシー運転手殴打事件と鉛筆投げつけ事件


1991年、松平は酒に酔ってタクシー運転手を車載電話で殴るという事件を起こす。当時のタクシーには、平野ノラが「しもしもー」のギャクで使う小道具のような電話が備え付けられていた。

泥酔状態でタクシーに乗り込んだ松平は、電話を借りて通話しようとしたものの、なかなか繋がらなかったためにブチギレ。受話器で運転手を殴りつけ、「俺は殿様だぞ!」と怒鳴ったと報じられている。松平は、伊予松山藩・久松松平家の旗本の子孫で、NHK内でのニックネームは「殿」だった。

この不祥事で、松平は担当番組を降板しNHK内の役職も降格となる。


4年後、ようやく『ニュース11』のメインキャスターとして復帰をはたした。ところが1999年、その『ニュース11』の放送中、「静かにしろ!」と叫びながらスタッフに鉛筆を投げつけたシーンがカメラに映り込んでしまう。
松平本人はVTRが流れている最中と勘違いしていたようだが、全国のお茶の間にバッチリと放送されてしまった。

当然、苦情の電話が殺到し、翌日の『ニュース11』内で松平は謝罪した。沸点の低さは相当のものだ。

松平定知の声が再注目されている現在


2007年にNHKを退職した松平は、テレビの第一線を退き講演活動などを行っていた。
しかし2015年、ドラマ『下町ロケット』のナレーションに選ばれ話題となったのは最初に述べた通りだ。

その後、映画『海賊と呼ばれた男』(2016年12月公開)の予告CMのナレーションにも抜擢された。『海賊と呼ばれた男』は、出光興産創業者の出光佐三の人生をモデルとした作品だ。出光興産という企業名と松平の声の組み合わせは、リアルドキュメンタリーの雰囲気、もっと言えば『その時、歴史は動いた』感が非常に強い。

NHKニュースや『その時、歴史が動いた』で松平の声を聞いてきた視聴者にとって、フィクションのドラマを見ているのに、あたかもノンフィクションのドキュメンタリーを見ているような錯覚を引き起こす。これが松平の声の特徴だ。


『下町ロケット』や『海賊と呼ばれた男』のように、企業や人間を描いた作品と松平の声の相性が良いことは間違いない。『シン・ゴジラ』のような、現実の日本を舞台とした空想映画にも、リアル感を増す切り札としてキャスティングが可能だろう。今後、フィクションの業界から松平のナレーションを求める声が高まっていくのではないだろうか。

※イメージ画像はamazonより松平定知が選ぶ「その時歴史が動いた」名場面30 (知的生きかた文庫)