イジメ、パワハラ、外国人差別等の人権問題等に関してとてもリベラルな思想を持ち合わせている男性が、ジェンダーに関してのみ知見が旧時代的ということが少なくありません。先日もダイバーシティの観点から男性保育士の推進を実施する等、リベラルな観点で先進的な政策を進めている千葉市長の熊谷俊人氏がジェンダーの問題に関する発言でプチ炎上に遭ったというケースがありました。


今回はこのケースを参考例にしながら、「男性がどのようにしてジェンダーの問題と向き合えば良いのか」「意識をするべきポイントはどこか」について考えて行きたいと思います。


男性不信は会社不信に置き換えてみれば分かる


男性は「女性の男性不信」にどう向き合えば良いのか?【勝部元気のウェブ時評】

千葉市の男性保育士推進に対して、男性保育士に女児の着替えを担当して欲しくないという意見が一部で生じたことは以前の記事でも取り上げましたが、それに関して熊谷氏は反対を表明する人々のプロフィールを調べたようで、その背景として「男性から被害を受けた等に起因する男性不信」という見解を Twitterで述べています。どうやら過去の個別具体的な被害体験によって生じたトラウマが原因で男性不信になるという見方をしているようです。

このような見方をする人は少なくありませんが、それは安直な判断です。女性が男性不信になる原因は必ずしも個別具体的な被害体験があるとは限りません。むしろ私個人としては、「男社会」という不平等な社会システムと、それによって女性が大きな不利益を被っているという現状に対して全く理解をしていない男性や、他人事として理解を示そうとすらしない男性に対して不信感を抱いている人のほうが多いように感じています。

これは会社に対する不信に置き換えてみれば男性も分かりやすいと思います。個別具体的なパワハラ等が無くても、会社に対する不信が募るというのはよくあることではないでしょうか? たとえば、意思決定の仕組み、公正ではない評価基準、世代間格差、尊敬に値しない組織文化等のシステムや文化に対して不信を募らせるわけです。

このような構造的な問題は会社を経営・管理している年の離れた「お偉いおじさま方」はなかなか理解してくれないわけですが、ジェンダーの問題に関して言えば、男性がそのような「お偉いおじさま方」状態に陥りがちなのですから、女性の男性不信が募るのも当然でしょう。しっかりとシステムや文化という構造的な問題が現実にあることを把握し、傾聴の姿勢を絶やさずに行きたいものです。


「男性不信になるのもこの国では普通」という感覚が必要


次に、仮に個別具体的な被害体験によって生じたトラウマが原因で男性不信になり、それゆえやや過激な規制論を唱えたとしても、実際に法令等で規制が決定されない限り、それ自体を問題視する必要は何も無いと思うのです。

インターネット上でもジェンダーの問題に関して言及するアカウントに対して、「男性をミソジニー(女性嫌悪)として叩いている自分がミサンドリー(男性嫌悪)ではないか!」という批判を加える人を時々見かけますが、これほど女性の人生に様々な障害や圧力があるジェンダーギャップ指数111位のこの国で、男性嫌悪や男性不信になっていないほうが奇跡的ではないでしょうか?

また、先述の熊谷氏は「ジェンダーフリー論者の中には女性の地位向上が目的で男性側に思いは寄せられない方が一定程度居るということだと思います」ともツイートしていますが、圧倒的な格差の前に苦しむ社会的弱者に対して、社会的強者に思いは寄せることを迫ることはやってはいけないことだと思います(※あくまで社会全体として弱者・強者と見なすことができるという意味であって、個別の人物が必ずしも弱者・強者と明確に分けられるものではない)。

たとえば、黒人解放運動の最中に「黒人解放論者の中には黒人の地位向上が目的で白人側に思いは寄せられない方が一定程度居る」ということを言えば、非難轟々ではないでしょうか? ジェンダーの問題もそれと同様で、社会的弱者に対して「かくあるべき」を求める態度というのは、「不平等を温存する人」と見なされて当然ですから注意しましょう。



日本人男性は男という自己の性別フィルターが強い


その一方で、確かに男性が非難の対象にされる言説を見れば、男性として心理的な抵抗が生じるのかもしれません。ですが、前述のように、非難している人の多くは「男社会」というシステムや文化のことを非難しているのであって、「男性性を有する個人」を非難しているわけではありません。


また、熊谷氏が「男性側として受け止めなければいけない事実と認識しました」とツイートしていますが、私は「男性側として」という表現を用いたことに対して違和感を覚えました。物事を認識する上で「男性として」捉える人は少なくないですが、本来はあくまで一個人として認識すれば良いだけの話を、わざわざ自己の性別というフィルターに当てはめて捉える機会が日本では非常に多いのではないでしょうか? 

たとえば、「父親として」「母親として」という表現がありますが、本来はそのほとんどが「親として」で済む話です。女性の話になりますが、スイスにルーツのあるタレントの春香クリスティーンさんも朝日新聞の記事で日本の性別フィルターに対して疑問を述べています。このように今の日本社会は性別フィルターが強いために、男性批判を必要以上に男性性を有する自分への批判と受け取ってしまう面もあるのではないかと思うのです。

ただし、ダイバーシティの実現には、人や物事を捉える際に偏見無くグラデーションで捉えることができるようになることも重要なこと。「男性は~どう向き合えば良いのか?」とタイトルに付していますが、そのためのファーストステップは、「男性としてという自己の性別フィルターを拭い去って個人として、かつ社会の一構成員として自分や他人を捉えられるようになること」だと思います。



フェミニズムやジェンダー論に対する偏見を捨てよう


また、熊谷氏がプチ炎上に対してコメントをした記事や一連の発言からも見て取れるように、ジェンダー論やフェミニズムというと、どうしても偏った見方をする人が多いかもしれません。

ですが、ジェンダー平等の考えにシンパシーを感じている人々の中では、今回の千葉市の推進する男性保育士の拡充に賛成している人も多く、肌感覚では賛成の人のほうが多いように思います。私自身もその一人だからこそ、彼のジェンダーに対して偏見があると思えるような発言にはかなり残念に思っています。

仮に「男性=犯罪者or潜在犯罪者」と決め付けるような極端な表現を耳にすれば、「違います!全ての男性が犯罪者ではありません!」という気持ちになる人も多いのではないでしょうか? でも、ジェンダー論やフェミニズムに対して偏った見方をしているということは、結局やっていることは同じなのです。決め付けていることには何ら変わりありません。

そもそも欧米では当たり前に男性がジェンダー平等やフェミニズムに共感を覚えて、フェミニストを自称しています。
アメリカのオバマ前大統領やカナダのジャスティス・トルドー首相は政治家の代表例でしょう。「これだからジェンダー論やフェミニズムは!」と考えるのではなく、是非彼らのように、ジェンダー論やフェミニズムに対してスマートに賛同を表明したいものですね。
(勝部元気)
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