「ファーストベースにヘッドスライディングしてもそれが様になる日本でも珍しいプロ野球選手」

30数年前、作家・村上龍は広島カープの高橋慶彦を題材にした小説『走れ!タカハシ』のあとがきでそう書いた。普通の人々の日常の中にある野球の魅力を軽快な文体と圧倒的な技術で切り取った傑作短編小説集。


このプロ野球小説の金字塔は多くの熱狂的ファンを生み、2001年には映画化もされたが、当時すでに高橋慶彦は引退。代わりにメインテーマとなったのは泣く子も黙る「鈴木一朗」である。

主人公は3人の“イチロー”


物語はイチローの日本ラストイヤーとなった2000年のグリーンスタジアム神戸(現・ほっともっとフィールド神戸)を中心に展開する。

そして主人公は3人の“イチロー”だ。大学野球部から大手ゼネコン会社に入社しながら突然リストラされ、妻(浅野ゆう子)を追って娘とともに神戸へ向かう石川市郎(中村雅俊)。グリーンスタジアムの売り子アルバイトをしている“一浪中”の望月竜介(松田龍平)。新作の執筆のため、神戸ホテルに滞在中の小説家・奥手川伊知郎(微妙に原作者・村上龍と顔が似ている石原良純)。

それぞれどん詰まりの日常から脱出しようと、彼ら3人のイチローが同名のスーパースター「イチロー」を追いかける様子が描かれる。

マニアックすぎた会話シーン


とにかくこの映画のイチロー愛はガチだ。中村雅俊、浅野ゆう子、浅田美代子といった豪華メンツの会食でこんな会話シーンがある。

「イチローが初めて首位打者を獲った年のこと覚えてる? あと5試合を残して3割8分9厘3毛。バースの日本記録を超えていたんだ。残り試合に出場しなければそのまま日本新記録。みんなそうしてるし、仰木監督も出なくていいって言ったのにイチローは残り5試合全部出て3割8分5厘で終わったんだ。
その年からイチローのファンになった」

「だって男の子だもん」

「記録よりも自分のダイヤモンドを選んだんだ」


凄い、もはや台詞というより、ただのイチローの偉業紹介だ。このマニアックさに一般視聴者はついて来られるだろうかって、テーブルに座るひとりは筋トレした田村正和かと思ったらかつて広島と巨人で活躍した“ダンディ川口”こと川口和久。

劇中、野球解説者にイチローの凄さを語らせる荒技で映画は進んでいく。阪神・淡路大震災時のテント村で、東京から仕事でやって来た石川市郎と知り合った靴職人のジョージ爺さんも、もちろん熱狂的なイチローマニア。

「スパイクを俺が作る」無茶苦茶なイチロー愛


誰かが球場からパクった盗品のスパイクを手に入れ、「これイチローの本物だよ。正確に言えば、95年盗塁王を獲った年にイチローが履いていたスパイクだよ」なんつって嬉々として語るジョージ。
「もちろんこれはイチローに返すつもりだ。なんせ、あの年以来イチローは松井カズオとか小坂にやられて盗塁王は一度も獲ってないからな。このスパイクが戻ればイチローは必ず盗塁王が獲れる。でもくたびれてるから、新しく全く同じスパイクを俺が作るんだ」と無茶苦茶なイチロー愛を形にしようとするジョージの情熱は、一種の清々しさすら感じさせてくれる。

神戸にいた「2000年のイチロー」を見られる作品


そして野球ファンとして嬉しいのは、当時のオリックス本拠地・グリーンスタジアム神戸の様子がじっくり見れることだ。

球場内ポスターや泣けるくらいガラガラのスタンドまでリアルに収録。仰木監督を始め、藤井康雄、谷佳知、田口壮、大島公一、塩崎真といった現役選手たちもちょい役で出演。
やりすぎというか、もはやコアな野球ファン以外誰もついて来れないでしょ……と心配になるが、すべてはイチロー愛に捧げた渾身の内容となっている。

正直、悲しいことに野球描写のガチさが増すほど、映画の完成度は著しく低下。原作小説の良さはほとんど生かされていないし、浅野ゆう子が臨時コーチを務める東須磨学園ソフトボール部監督役の川口さんの演技はほとんどコントの領域だ。

でも、「2000年のイチロー」が神戸にいた時代を記録したという意味では、価値のある一本だと思う。
オリックス51番が打席に立つ様子、関西空港から渡米する希望に満ち溢れた表情の27歳・鈴木一朗、物語のキーとなる室内練習場で黙々と練習する横顔。周囲のファンはその姿に日々を生き抜く元気を貰う。そんな幸せな関係性が確かにそこにあった。

さらに劇中、来季のメジャー挑戦が噂される神戸の至宝を語る時、人々がまだ“メジャーリーガー”ではなく“大リーガー”と言っていることに驚かされる。17年前、まだ多くの日本の野球ファンにとってMLBは遠い大リーグだったのである。

近所の球場に行けば、イチローが普通に見れた幸せな時代。今、51番はメジャー17年目のシーズンを迎えている。いつの日かまた、我々が日本の球場で「走れ!イチロー」と叫べる日はやって来るのだろうか。



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『走れ!イチロー』
日本公開日:2001年4月28日
監督:大森一樹 出演:中村雅俊、浅野ゆう子、石原良純、木村佳乃、松田龍平
キネマ懺悔ポイント:51点(100点満点)
イチローのトレーナーの妹役で当時19歳の柴咲コウ、ソフトボール部のエース役で17歳の水川あさみと現代の人気女優たちの贅沢な起用法にも注目!
(死亡遊戯)


※イメージ画像はamazonより走れ!イチロー [レンタル落ち]
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