90年代の巨人エースは誰だと思う? 

野球ファンにそう聞くと、ほとんどは斎藤雅樹か桑田真澄と答えるだろう。

ちなみに90年代に巨人投手コーチを務めていた堀内恒夫は、のちに雑誌のインタビューで「エース?斎藤!斎藤に決まってんじゃん!」と即答。
なにせ斎藤は2年連続20勝、沢村賞3度受賞、最多勝5度獲得で野球殿堂入りも果たした“平成の大エース”である。

対する桑田は最近の穏やかな言動からは想像もつかない、数々のスキャンダルに見舞われながらも、江川卓に代わる新世代のヒールキャラとして君臨。2年目には19歳にして15勝を挙げ、沢村賞を獲得してみせた。90年には“中牧事件”でシーズン開始後、登板禁止1か月、罰金1000万円という重い処分を科せられるも、復帰即完封勝利という並外れた精神的タフさを発揮。
94年中日との同率優勝決定戦(10.8決戦)でも最後にマウンドに立っていたのは、エースナンバー18を背負うこの男だった。

超人的なペースで勝ち星を積み重ねる斎藤と良くも悪くもマスコミを賑わす桑田。当時の2人の状況を一言で言えば「実力の斎藤、人気の桑田」だったように思う。

「巨人三本柱」の一角を担った槙原寛己


……って、あの男を忘れないだろうか。彼らとともに「巨人三本柱」の一角を担った背番号17、槙原寛己である。

身長187cmの大型右腕は、大府高から81年ドラフト1位で巨人入団。63年生まれなので、年齢的には斎藤の1学年上、桑田の4学年上となる。
2年目の83年には12勝で新人王、87年からは3年連続二桁勝利と活躍。そのポテンシャルはチームNo.1と称され、江川や西本のあとのエースと言われ続けた。


しかし下半身の故障が多く、おまけに極度の近視で、阪神戦では伝説のバックスクリーン3連発を浴び、さらにオールスター戦でユニフォームを忘れ練習用Tシャツで登場する天然ぶりも災いし、やがて斎藤や桑田らの後輩に追い抜かれる。

巨人残留を決めた長嶋茂雄からの電話


93年には自己最多の13勝を挙げるもFA制導入初年度のため、球団側も対応の仕方が分からなかったらしく何の連絡もない。もしかしてオレは移籍することになるのかなと覚悟しかけた時、いきなり朝の6時に自宅の電話が鳴る。

ったく誰だよこんな時間にと思って受話器を取ると、「オハヨ~長嶋で~す!いい朝だねぇ」なんつってあの甲高い声が聞こえてきた。なんとミスターから直接の巨人残留要請である。最後には「奥さんに代わりなさい。いいから私に任せない」とミスターの気遣いもあり、槙原はチームに残ることを決断する。

槙原のハイライトとなった1994年


翌94年は槙原のキャリアでもハイライトとなる1年だった。94年5月18日の広島戦(福岡ドーム)では完全試合達成。
その舞台裏では年に1度の九州遠征でハシャイでしまい、門限破りで罰金と1カ月の外出禁止を言い渡された槙原が、「罰金はいいです。でも30過ぎの男をつかまえて、1カ月の外出禁止はないでしょう」と逆ギレをかまし、マネージャーから「わかった。じゃあプロなんだから、明日の試合で結果を見せてくれよ」なんて約束を取り付けたことが快挙への第1歩だったという。

とりあえず勝利投手になればまた中洲へ飲みに行けるはず、そんな男の欲望は時に奇跡を呼び寄せる。試合終盤には長嶋監督ですら目を逸らしたという緊張状態の中、槙原は見事に完全試合達成。
背後で派手にバンザイするサード長嶋一茂の「おまえじゃねえだろカズシゲ事件」とともに、17年現在NPB最後の完全試合達成投手「ミスター・パーフェクト」としてその名を歴史に刻んだ。

この年の日本シリーズでは宿敵・西武に対し2勝0敗、防御率0.50の堂々たる成績でシリーズMVPに選出。同年の10.8決戦で先発するも序盤にKOを食らった汚名返上と同時に、大舞台に弱いというイメージを自ら払拭してみせた。

引退後も解説者として活躍中


晩年にはチーム事情でクローザーも経験し、98年と99年の2シーズンで計41セーブをマーク。01年限りで、長嶋監督や盟友・斎藤雅樹、同期入団の村田真一らとともに現役引退。
通算159勝128敗56セーブ、防御率3.19。もし抑え転向がなければ200勝も視野に入っていただけに惜しまれる。ちなみに斎藤は180勝、桑田は173勝だった。

引退後はその軽快なトーク術で解説者として活躍。どうしても選手時代の実績とプライドを捨てきれない元名プレーヤーが多い中、槙原は時に自らをネタにしてその場を盛り上げる。
6年前に発売された著書『プロ野球 視聴率48.8%のベンチ裏』の中では、当時“背番号と同じ17本のバラ”と話題になったミスター持参の花束は実は“20本のバラ”だったこと。お土産に用意した大好物のアップルパイを玄関に置き忘れるお茶目なミスターを慌てて追いかけたことを楽しそうに振り返っている。


もしも槙原が年下には絶対に負けないと意固地に思うタイプならば、90年代の巨人三本柱は成立しなかったのではないだろうか。
斎藤がダメでも桑田がいる。桑田が打たれてもまだ槙原がいる。ダブルエースよりも強力な球史に残る三本柱体制。

背番号17は確かにエースではなかった。だが今思えば、槙原寛己はプロ野球史上最強のローテ3番手投手だった。
(死亡遊戯)


(参考資料)
『プロ野球 視聴率48.8%のベンチ裏』(ポプラ社)
『読む野球』ー9回勝負ーNo.8 (主婦の友生活シリーズ)



 
 



 
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