今週月曜日、日刊スポーツ出版社公式アカウントからの突然の休刊発表ツイートに多くの野球ファンが「昔、読んでたのに」と騒然とした。
今じゃなくてその昔、特にプロ野球が地上波で毎晩放送していた90年代は、アイドル雑誌として『プロ野球ai』を読む同じクラスの女子が普通に存在していたリアル。
だが時が経ち、あの頃よりプロ野球がマニアックなジャンルとなり、さらに近年はSNSの普及でお気に入りの選手の画像は気軽に共有できるようになった。
大きなサークル内でみんなで共有するというよりは、小さい円環が無数に存在し、それぞれの方法でプロ野球を楽しむ2017年。今、球場でデジタル一眼レフカメラを片手に選手を撮影しているファン層は、20年前だったら『プロ野球ai』のメイン購買層だったように思う。
『プロ野球ai』の名物企画
この雑誌の名物企画と言えば、やはり人気投票ランキングだ。17年4月号で第164回が掲載された「いま光っているヒーローたち」。ごちゃごちゃ言わんと誰が一番強いか 決めたらええんや! 的な単純明快な読者が選ぶ人気選手。いわばAKB総選挙のプロ野球版だ。
この企画において90年代前半、圧倒的な人気を誇った選手がいた。
「ミスタープロ野球ai」緒方耕一
緒方耕一である。一応断っておくと、あの広島監督の緒方孝市とは別人のオガタコウイチだ。
第9回(90年1+2号)から第20回(91年11+12号) まで12号連続で首位に選ばれた絶対王者。さらに92年に発売された6冊中2冊は、緒方がドアップで表紙を飾っている。要は緒方さえ出していれば雑誌が売れる状態。計15回も1位を獲得。
名門・熊本工業時代は俊足の遊撃手として知られ、86年ドラフト6位で巨人から指名。
ドラフト当日はまさか自分が指名されるとは考えもせず、普通に自動車教習所へ。ツラく厳しい野球部を引退したら、とりあえず車とおネエちゃんに走る高3の秋。早く免許取りてぇなあと思ったら、場内放送で呼び出され家に電話を掛けると「あんた何やってるの。ドラフトにかかってるよ。早く帰って来なさい」と自身の指名を知る。
実際、当時の下位指名選手はドラフトは他人事というケースも多かった。例えば、ある選手は野球ファンの1人として、授業中にこっそりラジオ中継を聴きながら12球団の1・2位指名表を作っていた。あぁ今年のドラフトも楽しかったなあ……なんつって下校する直前に、自身が中日から5位指名されたことを知る。それがのちの名球会サウスポー山本昌である。
1989年、ブレイクした21歳の緒方
そんなこんなで思いがけずプロ入りした背番号44の緒方は、入団後に俊足を生かすためにスイッチヒッターへ転向。2年目の88年にはイースタンリーグで盗塁王タイトルを獲得。
そして3年目に故・藤田元司が2度目の巨人監督に就任し、緒方の運命は変わる。「俺が投げていたとき、チョロチョロするランナーがいたら嫌だった」と投手藤田目線で89年に1軍デビューすると、76試合で打率.308、3本、22点、13盗塁とブレイク。内外野守れる21歳の若武者。
マジで今の巨人に欲しい……じゃなくて、高校の先輩で2つ年上の井上真二とともに「熊工コンビ」と呼ばれ、球界を代表するアイドル選手として人気者となった。ちなみに『プロ野球ai』90年1+2号の表紙はこの熊工コンビのふたりが飾っている。
凄まじかった緒方人気……惜しまれた引退
翌90年には自身最多の119試合に出場すると、規定打席到達、33盗塁で初のタイトルも獲得した。
この頃の緒方人気は凄まじく、当時のジャニーズのアイドルさえも凌駕するイケメンぶり。そんな緒方に藤田監督は「早く結婚しろ」と声を掛けたという。「野球っていうのは大変な仕事だ。その切り替えは家庭を持った方がうまくいく。だから、お前は早く結婚しろ」と親身になってのアドバイス。
そして25歳で結婚した緒方は、長嶋監督が就任した93年に24盗塁で自身二度目のタイトル獲得、翌94年には西武との日本シリーズでその年ペナントレース0本塁打ながらも、劇的な満塁アーチを放つ活躍を見せた。
やがてチームは巨大補強時代へと突入し、アキレス腱や腰痛に悩まされた緒方は98年に30歳の若さで現役引退を発表する。前年の97年には1軍で73試合に出場していただけに、早すぎる引退と惜しまれた。
のちに外野守備・走塁コーチとして巨人に戻った緒方は「背番号73」を選択した。これはもちろん現役時代に何者でもなかった自分を見出してくれた恩師・藤田元司が監督時代につけていた番号である。
(参考文献)
『ジャイアンツ80年史』PART1 1981-1992(ベースボール・マガジン社)
『プロ野球ドラフト50年』PART2 1965-2014(ベースボール・マガジン社)