出場を決めた49校の中で、神奈川代表として大会に臨んでいるのは、横浜高校。本戦出場17回を数える、言わずと知れた名門中の名門です。
そんな同校野球部において、今から22年前の夏、一人の天才・ピッチャーがこの世を去ったのをご存知でしょうか?
松坂、筒香以上の逸材と断言
横浜高校には、かつて渡辺元智という、およそ、50年の長きに渡り同校で指揮をとった名物監督がいました。プロに送り込んだ選手は実に40人以上。愛甲猛、高橋建、鈴木尚典、多村仁志、成瀬善久、涌井秀章、筒香嘉智、そして、松坂大輔……。いずれも、球史に残るスタープレイヤーです。
彼らを差し置き、渡辺が半世紀に及ぶ指導人生の中で「間違いなくナンバーワンの逸材だった」と太鼓判を押す選手。それがわずか17歳にして逝った伝説の投手、故・丹波慎也でした。
上地雄輔が横浜高校入りを決意した、丹波のピッチング
丹波に関する情報は決して多くありません。何せ、彼が活躍したのは、ほんの一瞬。高校2年生の夏までだからです。
その鮮烈な印象を記した貴重な資料が、タレント・上地雄輔のブログの中にあります。彼が横浜高校野球部の元キャッチャーで、1年後輩の松坂とバッテリーを組んでいたというのは有名な話。
それは、上地が中学3年生の夏。地元神奈川県の地方大会・準決勝「横浜×横浜商工」をテレビで観ていた時のことでした。
緊迫した試合展開の中、ピッチャー交代。マウンドに上がったのは、モデルのような体形をした背番号「11」。当時1年生の丹波です。丹波は快刀乱麻のピッチングで、次々と三振を奪っていきます。
その様子をブラウン管越しに見ていた上地は、思ったそうです。「この人のボールを受けてみたい」と。
文武両道、チームの模範的存在だった
第三者の進路に大きな影響を与えるほど、若くして天賦の才に恵まれていた丹波。
それゆえ、多少なりとも驕りそうなものですが、本人はいたって謙虚でまじめだったといいます。女子から騒がれようが、マスコミに追い回されようが、意に介さず淡々と練習をこなし、成績はいつもトップクラス。
また、気さくな性格であり、先輩後輩関係なく、多くの部員から慕われていたそうです。
急性心不全で眠りながら亡くなっていた
2年生の夏。3年生引退後にエースで4番を担った丹波は、ますます力を付けていきました。
練習試合4試合でノーヒットノーラン2回、3本塁打。傑出した野球センスを持ち、チームのムードメーカーでもあった丹波を中心に、春のセンバツに向けてチーム一丸となっていこう……そんな矢先の1995年8月17日、丹波は突然息を引き取りました。
心臓肥大による急性心不全で、眠りながら亡くなっていたそうです。
その報を合宿所で受けた選手たちは、崩れ落ちるように皆号泣。入学直後から丹波とバッテリーを組み、弟のように可愛がってもらっていた上地は、事実を受け入れることが出来ず、茫然と立ち尽くしたといいます。
丹波の死に奮起した横浜高校、甲子園に春夏連続出場
丹波の死が横浜高校野球部に与えた精神的ショックはあまりにも大きく、一朝一夕で立ち直れるものではありませんでした。「センバツの予選は辞退しようじゃないか」渡辺監督でさえ、そう思っていたといいます。
しかし、丹波の母が「何としても慎也のために、試合をやってくれ」と渡辺に懇願。この想いをくみ取りチームは奮起します。エースで4番の絶対的支柱を失い、決して実力的には十分でなかったものの、見事に同年の春・夏の甲子園への出場を果たしたのでした。
丹波の死から22年。
(こじへい)