2017年もついに大晦日を迎えた。アメリカ・ニューヨークのタイムズスクエアでは年越しにあたりカウントダウンイベントが行なわれる。
世界各地から100万人以上の観客が集まり、10億人がテレビ視聴するというこのイベントのオフィシャルスポンサーには、日本企業として東芝が参加している。

東芝が、タイムズスクエアでもっとも目立つ位置に建つワン・タイムズ・スクエア・ビルの最上部に「東芝ビジョン」と呼ばれるLED2面の広告看板を掲出したのは、いまからちょうど10年前の2007年12月のこと。当時の東芝社長・西田厚聰は、看板の点灯式において「ここから東芝の戦略を全世界に示してグローバル競争を勝ち抜いていく」と高らかに宣言した。東芝はこの前年、アメリカの原子力発電関連の大手メーカーであるウェスチングハウス・エレクトリック(WH)の買収に成功していた。

だが、この東芝ビジョンのもとでカウントダウンが行なわれるのも、今年で最後となる。すでに東芝は、経営再建の一環として来年前半の契約満了をもって東芝ビジョンの撤退を決めているからだ。


不正会計の発覚から解体へ


名門電機メーカーの東芝にとって2017年は、解体の一途をたどった1年だった。その直接の原因は、3月に前出のWHが巨額損失を出して経営破綻したことだ。これにより債務超過に陥った東芝は、唯一残った成長部門である半導体メモリー事業の売却が9月にようやく決まり、かろうじて命脈を保った。

それ以前、2015年には東芝の各部門で不正な会計処理が行なわれていたことが発覚、当時会長となっていた西田厚聰をはじめ歴代社長3人を含む経営陣が辞任するという事態にまで発展する。不正会計は、WH買収後、2008年のリーマンショック、さらに2011年の福島第一原子力発電所の事故による収益環境の急激な悪化から、それを隠蔽するため始まったものであった。

不正会計の発覚により、過去の業績不振が露呈した東芝は、医療事業や白物家電事業といった各部門をあいついで売却、危機を乗り切ろうとした。他方、子会社のWHも収益が減損していたにもかかわらず、同社は2015年末にアメリカのCB&Iストーン&ウェブスター(S&W)という会社を買収。
結果的にこのS&Wの出した巨額の損失が、WHを破綻に追い込み、東芝の屋台骨を揺るがすことになった。

国策としての原発輸出


以上が東芝解体のおおまかなあらましである。この事件については、大西康之『東芝解体 電機メーカーが消える日』(講談社現代新書)、『東芝 原子力敗戦』(文藝春秋)、大鹿靖明『東芝の悲劇』(幻冬舎)、さらに12月に出た児玉博『テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅』(小学館)など現在までにいくつかのノンフィクションが刊行されている。

東芝の一連の危機の発端は、2006年にWHを買収したときにさかのぼる。当時、地球温暖化防止のための国際的な動きや、将来的に国内での原子力発電所建設は頭打ちになるとの予測などから、原発の海外輸出が国策として掲げられていた。東芝はこれに乗じて約6000億円超もの巨費を投じてWHを買収したのである。ここにそもそもの問題があったのではないかとの見方を、これらの本は共有している。

衝撃の「東芝解体」をノンフィクションで見直す、これは一企業の問題ではない
『テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅』(小学館)。大宅賞作家の児玉博が、東芝の解体にいたる経緯を元社長・西田厚聰の人生を軸にたどったノンフィク

異色の経営者の「豹変」


児玉博『テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅』は、東芝の社長、会長を歴任した前出の西田厚聰の人生を軸に、グループ解体にいたるまでの経緯を描いたものだ。西田は東芝の歴代経営者のなかでも異色の経歴の持ち主であった。東大の大学院で西洋政治思想史を研究し、アカデミズムの世界で嘱望されながら、1973年、イラン政府と東芝の合弁会社に入社する。イランに渡ったのは、大学院で知り合った同国の女子留学生(のちの夫人)が、帰国して東芝の現地会社に勤務していたのがきっかけだった。ここで成果をあげた西田は、75年には東芝本社に採用される。タイトルの『テヘランからきた男』とはそこに由来する(テヘランはイランの首都)。

1980年代には東芝ヨーロッパ社上級副社長として当時の西ドイツに赴任する。
当時、パソコン事業が不振をきわめており、アメリカ市場に続き、ヨーロッパからも撤退が検討されていた。しかし社内からヨーロッパからの撤退はもったいないとの意見が出て、西田にその立て直しが託されたのである。彼は新たな市場開拓のため、世界初となるラップトップ型パソコン(のちのノート型パソコンの原型)の開発を進めながら、大量のデスクトップパソコンの在庫を売りさばいていった。

ラップトップ型パソコンの開発にあたっては、デスクトップ型よりも小さなフロッピーディスクドライブを搭載することになる。ドライブは自前で開発できるものの、フロッピーに搭載するソフトは外部メーカーに開発を依頼する必要があった。だが、パソコン業界では圧倒的に知名度の低い東芝の注文に応じてくれるソフトメーカーなどあるのか。
そうした周囲の心配をよそに、西田は部下一人を連れてイギリスのあるメーカーに足繁く通う。最初はほとんど相手にされなかったが、4回目の訪問にしてついに口説き落とした。

しかし西田はこれでよしとはしなかった。続いてイギリスの別のソフトメーカーに赴くと、先のメーカーの名前をあげながら、ここでもソフト開発を依頼する。2社に開発競争させることで、コストダウンを狙ったのだ。このあと、彼は最初に発注したメーカーを再訪して、別のメーカーとも接触していることをほのめかしながら、今度は同社がすでに開発していた表計算ソフトをフロッピーディスクに搭載したいとの要望を伝える。
こうしたしたたかな交渉の末、西田はラップトップ型パソコンを実現へと導いていったのである。

このヨーロッパ時代をはじめ、社長に就任するまでの西田の歩みをつづったくだりは、じつに胸躍るものがある(映画やドラマにして、渡辺謙や役所広司あたりが演じたらハマりそうだ)。それだけに、WH買収後、原発の輸出計画が難航するなか、西田が不正経理に関与していくさまは、こんなに人は変わるものなのかと読んでいて唖然とさせられる。ある元社外役員は、《西田さんとの会話が面白くなくなっていった。彼は数字のことしか言わなくなってしまったんだ。西田さんの魅力だった、理想とか哲学とかがなくなっていった》と、このころの西田の変貌ぶりを証言している。

『テヘランからきた男』の最後の章には、東芝解体が決定的となった直後の今年10月、西田が取材に応じたときの模様がつづられている。このとき彼は胆管癌に侵され、病床にあった。自らの死を予期しつつも取材に応じたことには感服するが、著者が書いているように、残念ながらそこで語られた言葉には釈然としないものが残る。西田が73歳で亡くなったのは本書が出てまもなく、12月8日のことだった。

日本企業の体質を浮き彫りにした東芝問題


大西康之が今年5~6月にあいついで刊行した『東芝解体 電機メーカーが消える日』と『東芝 原子力敗戦』は、国策としての原発の海外輸出をめぐる、東芝をはじめ電機メーカー各社と政府および経済産業省の関係をえぐり出す。

『東芝 原子力敗戦』は、関係者から提供された情報なども踏まえて書かれたものだが、各所で引用されたメールなどの内部文書はじつに生々しい。そこから浮き彫りになるのは、国策にただひたすらに従うメーカーの姿であり、そして会社のため何の疑いもなしに不正に手を染めていく役員・社員たちの姿だ。著者はそこに「サラリーマン全体主義」ともいうべき日本企業独特の体質を指摘し、次のように書く。

《国内で安く大量にモノを作る時代は終わった。それでも日本企業は、「滅私奉公」「全社一丸」のサラリーマン全体主義を捨てられなかった。「日本のものづくりは負けない」「官民一体で難局を乗り切ろう」と、まるで戦時中のような精神論が幅をきかせ、職場ではパワハラが横行し、若者はブラック企業の犠牲になった》

このように、東芝解体は単に一企業の問題というだけでなく、日本社会全体を見直す上でもさまざまな教訓を示唆している。
(近藤正高)