F1レースクイーン廃止に反対大合唱の日本は感覚が“周回遅れ”

F1のオーナーである「リバティ・メディア」が、2018年シーズンからレースクイーン(正式には「グリッドガール」)を廃止することを決定しました。ハフィントンポストの報道によると、廃止の理由として、F1商業部門のマネージングディレクター、ショーン・ブラッチズ氏はこのようにコメントしています。


「グリッド・ガールは、長らく重要なものだと思われてきましたが、もはやF1のブランドとは合わないと感じています。今の時代と明らかに合わないですから。グリッドガールは、F1にとって、そして世界中のファンたちにとっても、もはや適切でも妥当でもないと思います」

女性“だけ”が、レーサーという男性に華を添えるための補助的な役割に就くことは、やはり性別役割分業であり、女性差別的かつ女性蔑視的であると言わざるを得ないため、リバティ・メディアの判断は正しかったと私も思います。


日本ではレースクイーン廃止反対の大合唱


これに対して、日本では廃止反対の意見がかなり多いように感じました。もちろん欧米でも当事者や過去の関係者を中心に反対意見が出ているようですが、日本の反対意見の多さは際立っているように思うのです。

たとえば、大手スポーツ新聞やモータースポーツ系のニュースメディアでは、反対意見を重点的に報じるケースや、明らかに反対意見を唱えるケースが多いようです。廃止の事実や今後の影響を淡々と伝えるメディアもありますが、廃止賛成を表明するメディアは、私が探した限りありませんでした。


また、正式な調査ではないですが、お笑い芸人の田村淳氏がTwitterで賛成か反対かアンケートを取っており、かなり誘導的な質問をしていることもあり、83%もの人が反対していました。これらが示すことは、日本人の人権感覚が他の先進国と比べて、「周回遅れ」になっているという証拠ではないでしょうか?


「グヘグヘ経済」は日本衰退要因の一つ


この感覚の欠如は人権問題に限らず、ビジネス的にも様々な悪影響を日本に及ぼしていると思います。

たとえば、日本企業による日本国内のイベントブースには、女性コンパニオンがズラッと並ぶのがスタンダードです。ところが、業界でトップランナーを行く外資系企業が、そのようなコンパニオンによるプロモーションをしていないケースは少なくありません。最も分かりやすい例がiPhoneでしょう。

コンパニオンをふんだんに使った従来のプロモーションをいまだにしている国内携帯電話メーカーと、ユーザビリティーや製品そのものの本質的なブランディングを極めようとしたApple。戦いの結果は誰もが知る通りです。


男性の鼻の下を伸ばして経済を回すという「ゾンバルト型経済発展モデル(=グヘグヘ経済)」は、もはや20世紀の遺物です。せっかくの技術力を持っていても、そういう古臭いモデルとは決別して本質を極めないと、国としてジリ貧になるだけだと思いまし、事実そうなっているのではないでしょうか?


廃止を決定したのは女性団体ではなくF1自身


さて、ここから先はグリッドガールの廃止に賛成か反対かというよりも、主に廃止に反対している人々の認知の歪みについて言及したいと思います。

インターネットの書き込みを見てみると、反対意見の多くは、「女性団体やフェミニストから圧力があったから廃止になったんだ!」として、やり玉にあげており、田村氏も先のアンケートを取る際に、「女性が勝ち取った地位を女性団体が奪う事になってない?」と発言しています。

ですが、その認識は間違いです。当然、当事者や関係者を中心に、廃止にするべきではないという圧力も常にあったことでしょう。賛否ともにロビイストたちが圧力をかけることは当たり前のこと。あくまで意思決定権者が時代の状況を鑑みて、どちらの主張がより自分たちにふさわしいかを考えた結果、廃止を決定したに過ぎません。


実際、意思決定をしたリバティ・メディアは、決して「女性団体やフェミニストから圧力があったから」ではなく、冒頭に記したようにあくまで自分たちの考えで今の時代やブランドに合わないと判断し、廃止に至ったことを表明しています。

ところが廃止反対の人々は怒りの矛先をF1に向けられない、もしくは向けたくないために、心理学で言う防衛機制の一種である「感情転移」が働いたからなのか、女性団体やフェミニストに矛先を向けているわけです。


「グリッドボーイ<廃止」という合理的選択


もちろん、完全に廃止ではなく、2015年に試みた「グリッドボーイ」のように、男女ともに就けるようにするという選択肢もあったことでしょう。でも、想像できるように、それでは需要が無いと考えられます。そもそも、グリッドボーイというポジションをわざわざ用意しなくても、F1というスポーツ自体は十分成り立つわけです。

1.女性差別的で女性蔑視的な文化を温存するのは良くない
2.でも経費を払って需要が無いグリッドボーイを導入するのは経営的に間違い
3.であれば廃止にすることが最も合理的

おそらくこのような試行錯誤はあったのではないでしょうか。もちろん、この仮説が本当か否かは分かりませんが、その意思決定の過程に思いをはせることなく、短絡的に「女性団体のせいだ!」と決めつけて叩くのは、彼らが己のミソジニー(女性嫌悪)を露呈しているだけではないでしょうか?


「当事者」と「労働の構造」は全く別レイヤーの話


次に論拠の問題です。テレビのコメンテーターの発言やインターネット上の声を見聞きしていると、「当事者たちは決して誰かにやらされたわけではなく、自分でやりたくてやっているのだから、女性差別や女性蔑視ではない!」という論拠の反対意見がかなり目立ちました。


もちろんその職業が一度社会に定着した後で、出来上がった労働環境に適用して生き延びている人々も一部にはいるでしょう。とりわけ成功した人々は、蔑視や差別を感じないのは当然のことです。

でも、一部の当事者が現状の労働環境に適応しているか否かと、グリッドガールやレースクイーンという労働の構造が女性蔑視的な否かは全く別次元の話であり、「適応している人もいるが構造は蔑視的」という状態が成立することもあります。

ですから、「女性蔑視的構造だ!」という指摘に対して、「当事者が蔑視だとは思っていない!」というのは何ら反論になっていないのです。もし反論をしたいのなら、当事者ではなく労働の構造が蔑視ではない論拠を示す必要があります。


自分の悪質性を女性に投影する男たち


なぜ、構造が蔑視的かと言えば、言わずもがなグリッドガールやレースクイーン、コンパニオン等の職は、男性や男性が作った商品に対して女性が己の身体美で華を添えるという意味で位置づけられている職業だからです。先述の田村氏も「女性が勝ち取った地位」と言っていましたが、歴史や現実は「男社会が用意した地位」に過ぎません。


このように、構造が出来上がり持続している背景を一切スルーしてしまうのは、やはり心理的な歪みがあると思われます。男性自身や男社会による加害構造が諸悪の根源なのに、その悪質的意図や加害性を心理的に「否認」し、女性に「投影」しているため、まるで女性が主体的に選択しているように映るのです。

このように、「男性側の悪質的意図の否認と投影」という歪みのケースは、至るところに散見されます。たとえば、「風俗で働くなんてけしからん!」という性風俗産業の顧客や、自分が性的関係を採否の基準にしているのに「女性から枕“営業”を受けた」と捉えるプロデューサーおよびスポンサーや、痴漢したのは自分なのに女性が誘ってきたように思ったという痴漢犯罪者等です。彼らには、自分たち男性の悪質的主体性という概念がゴッソリ抜け落ちている点が共通しています。

もちろんグリッドガール廃止反対の人々はただ主張しているだけで、実際にこれらの犯罪行為やハラスメント行為をしているわけではないですが、否認と投影という心理構造は全く同じであり、それらの加害者と社会的に地続きであると思います。



エロ商売の時だけ女性の味方面をする男たち


加えて、「女性が女性の仕事を奪っている!」という反論もありましたが、これも「男性側の悪質的意図の否認と投影」のケースです。

「正規労働者=男性、非正規雇用=女性」という役割分業や男女の賃金格差がいまだに残り、子供は保育園に入れず仕事を辞めざるを得ないことも多く、セクハラやマタハラで苦しめられる女性が多いというのが、この社会の一般的な現状です。この社会では男性側が女性たちの仕事を奪うということが社会全体で行われています。

ところが、彼らはそのように女性を取り巻く数多の労働問題には目をつぶります。女性が派遣切りに遭っても、セクハラやマタハラの被害に遭っても、大半の企業で女性管理職比率が世界最低水準であっても、彼らが大きく反対の声をあげることはほとんどありません。エイジズムを押し付けられたレースクイーンやコンパニオン等の女性たちが、若い時だけチヤホヤされ、年齢を重ねると「用済み」として業界から消えて行っているのも知らん顔です。

一方で、女性性や若さを売買する職業が問題視された時にだけ、「女性の労働を奪うな!」と抵抗します。2016年にネット上で話題になった「おっぱい募金」の時も、AV出演強要問題の時もそうでしたが、彼らは「若さと女子性を男性に切り売りしたい女性」にだけ肩入れします。

そんな彼らはただの『ズリネタリブ』ではないでしょうか? 彼らが守りたいのは決して女性の労働の権利ではなく、自分たちの女体支配権です。それなのに「女性の権利」を盾にあたかも正義を装って、女性の味方を気取るわけですから、軽蔑に値すると思うのです。


レースクイーンへのやりがい搾取をするな


さらに、フリーのルポライターである安田峰俊氏は、「美人の職場が減って従来よりも貧困化する人が増え、結果的にパパ活や愛人契約に流れる人が増えて女性の地位はむしろ下がる」という見解を自身のTwitterで述べていましたが、実態は因果関係が真逆です。前述のように、「華ある女性と地位ある男性」の労働構造を温存し続けることが、女性の貧困を招いているわけです。

求人サイトのアルバイト情報を見ると、ここ最近のレースクイーンの給与は日給1万数千円からが相場のようです。人気が出ればもう少し稼げると思いますが、男性の所得と比較すれば、たかが知れています。毎日興行をしているわけではないので、フルタイムで仕事に入れるわけでもありません。

でも外見を着飾るコストは重くのしかかります。お小遣い稼ぎのためにアルバイトをする大学生とは違い、本気で業界でより大きな仕事を得て生きていこうと思うのであれば、お仕事関係者との人付き合いも必要で、かなりの交際費がかかることでしょう。それらの出費はもちろん僅かな給与だけで賄えるはずが無く、結果として親の支援を受ける人や、既にパパ活をしている人も一部にいるわけです。

以前の記事「働き方改革の意味が分かっていないお偉いさんと邪魔をする身勝手な顧客」でも指摘しましたが、プロであれば相応の報酬を受け取るべきです。仕事に関連する出費が多く、他からの収入で補わなければ続けて行けないというのは決して、プロとして適正な賃金が支払われている状態とは言えないですし、「ディーセント・ワーク」とも言えません。

このように現状のレースクイーンをまともに成り立っていない労働環境にしているのは、適正賃金を払わない男社会のほうです。にもかかわらず、「彼女たちはプロ意識を持っているんだ!」「誇りを持ってやっているんだ!」と反論を述べる人が多々います。その一方で、「レースクイーンは補助的役割だから賃金は低くて当然!」とも言うわけです。それはただの「やりがい搾取」ではないでしょうか? 


自分の足で強く美しく咲く華であれ


最後になりましたが、私に限らず、グリッドガール廃止に賛成する人の多くは、女性が自分の容姿を活かして働くこと自体を否定しているわけではありません。

ただ、それは決して「男性に添える華」ではなく、「自分一人で強く輝く華」であるべきだという考えです。これまでグリッドガールやレースクイーンをしていた女性たちが、一人の女性として輝けることを心から願っています。
(勝部元気)