選手時代の人気はもちろん実績や知識も申し分ない。どうしてこの人は長く現場を離れているのだろうか?
ファンがそう思う元プロ野球選手は数多いが、真っ先に名前が挙がるのが2015年に野球殿堂入りを果たした平成最強捕手・古田敦也だと思う。
ソウル五輪銀メダルの実績を引っさげプロ入り後、2年目には打率.340で捕手としてはセ・リーグ初の首位打者獲得。翌92年にはオールスター初のサイクル安打達成、ペナントでも30本塁打を放ちチームの14年ぶりのリーグ優勝に貢献した。93年は盗塁阻止率.644(企図数45、盗塁刺29)という驚異の日本記録をマーク。自身はセ・リーグMVPにも選ばれ、野村ヤクルト初の日本一に輝く。
その後もヤクルト黄金期をど真ん中で支え続け、現役晩年にはプロ野球選手会長として04年球界再編では史上初のストライキを敢行し、12球団制を維持。06年にはヤクルトの選手兼任監督に就任。「代打、俺」が話題を呼んだ。NPB史上最高の通算盗塁阻止率.462、打撃では通算2097安打を放った背番号27は、キャッチャーの地味なイメージそのものを変えたと言っても過言ではないだろう。
そんな古田だが、若手時代は野村克也監督のマンツーマン指導によく耐えていたというイメージがある。ボヤかれディスられまくり、毎日のようにベンチで立たされて怒られ、決して褒められることはない。もしも現代のルーキーに同じ指導をしたら、心折れてお台場あたりで風に吹かれながらママに電話すると思う。もちろんそれだけの知識を持つノムさんは偉大だが、すべてを受けきった古田の精神力も本当に凄い。
自分でコントロールできないことは考えない
「とりあえず言われたことには分からなくても『ハイ!』と答えていました」
本の冒頭からいきなり衝撃的なカミングアウトである。打たれてベンチに戻ったら監督からどやされ、ストレスばかりが溜まっていく。だが、野村監督は日本一の実績を残してきた捕手、新入りの自分が意見を言っても聞いてもらえるわけがない。そこで古田は現実を受け入れ「何も言わずに引き下がって耐える」方法に出る。完全なイエスマンになったのである。そうして2年3年とハードワークに耐え、試合でも結果を残し始めると、徐々に「あのピッチャーはどうだ?」と監督の方から意見を求められるようになったという。聞かれて初めて意見を言う。実績に差がある上司には反発しても意味がないし、ともに働く内に時間が解決することもある。で、古田は悟るのだ。選手は上司を選べないと。
とにかく相手がどういう人か見極めてから考えて動くID野球の申し子。
ルーティンを作らず、あえて鈍感に
ちなみに古田はあえてルーティンを作らないようにしていたという。自らのルールに縛られ、この枕や布団じゃなきゃ寝れないとか言い出したら、それがない時にストレスを感じてしまう。確かに移動の多いプロ野球選手は、いかに心身ともにタフでいられるかの勝負でもある。新幹線でも飛行機でも気にせず眠り、どこの土地でも好き嫌いなく食事をする。古田がルーキーの年、海外キャンプに大量の和食を持っていく神経質な先輩選手がいたが、そのナイーブな先輩はプロの世界では大成せずにチームを去っていったという。だったら、いっそ環境に鈍感でいた方がいい。
この連載で多くの野球選手を取り上げてきたが、個人的に今回の古田敦也の人生観に最も共感してしまった。恐らく、この男は他人に過剰な期待をしていないのではないだろうか。分かり合えなくて当たり前を前提にコミュニケーションの妥協点を探っていく。先輩や上司がムカつくって、まあムカついて当然だからくらいのスタンスでいた方が対処しやすい。まさにその人生観は投手を買いかぶらず現状を冷静に分析し、「打者に打たれる」という最低の結果を避けるため、逆算してリードを組み立てる名捕手の思考そのものだ。
古田は立命館大4年時のドラフトで、ある球団から上位指名を確約されながら、直前でまさかの指名漏れした屈辱を経験している。理由は「メガネをかけている」という理不尽な理由。つまりプロ全球団が、当時の野球界では珍しいメガネをかけた捕手を敬遠したわけだ。そこから古田はトヨタ自動車でアマ球界No.1捕手に成長し、己の運命を切り開く。他人の評価はコントロールしようがない。だったら、とりあえずその場でできることをやっていくという人生観は、これらの体験も大きく関係しているのではないだろうか。
最近、上司の説教でヘコんでいるあなた、焦って転職を考える前に古田本でも読んで冷静になることをオススメします。
【プロ野球から学ぶ社会人に役立つ教え】
環境や悩みに“鈍感”でいることも必要。時間が解決することもある。
(死亡遊戯)