RADWIMPSの「HINOMARU」が紡ぎ出す“愛国心音痴”
写真はイメージ

人気音楽グループ「RADWIMPS」の新曲「HINOMARU」が、まるでネトウヨが書いたような愛国ソングだとして、大きな波紋を広げています。曲の中には、「日出づる国の御名のもとに」等のフレーズが散りばめられており、まるで軍歌のようだと批判が噴出して、アジアを中心に海外からも批判を受けているようです。


作詞をしたボーカルの野田洋次郎氏は「僕は(中略)純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたい」と述べておりますが、「右も左もない普通の日本人」というのは、まさにインターネット上でネトウヨ思考(※思想ですらないと思うのでこのような言い回しをしています)を持ち合わせている人々の常套句です。

アメリカからの帰国子女でもある野田氏がなぜ安易なネトウヨ思考に堕ちてしまったのか理解に苦しみますが、国は歴史の上に成り立つもの。野田氏は謝罪文で、「時代に逆行するのではなく、前進しようと」と述べていますが、やはり過去の出来事に縛られるのは当然のことで、それを踏まえた未来への「前進」でなければ、隣人たちに受け入れられないのは当然でしょう。

愛国ソングが世界的に許される条件とは?


野田氏は「世界の中で、日本は自分達の国のことを声を大にして歌ったりすることが少ない国に感じます」と述べていることから、他国を真似て愛国ソングを歌いたいと思ったかもしれません。確かに、世界各国で愛国ソングは存在すると思いますが、そこには大きな違いがあるように思うのです。

とりわけ経験した歴史が日本は特異であることが非常に大きいと思います。たとえば、愛国心を鼓舞する典型的な曲は国歌だと思いますが、国歌の歌詞が生まれるきっかけとなった時代背景には以下3つのパターンがあると思っています。

(1)独立に向けた戦い
(2)侵略への抵抗
(3)圧政からの解放

(1)はアメリカ「星条旗」の独立戦争、(2)は中国「義勇軍進行曲」の抗日戦争、(3)はフランス「ラ・マルセイエーズ」のフランス革命がそれぞれ代表例でしょう。そして全ての出来事に共通するのは、自分たちは「被害者ポジション」であり、自分たちを苦しめる巨悪との戦いに立ち向かう国民の姿を描いている点です。

先進国の中でもイギリス国歌は日本と同様に君主賛美的な内容ではありますが、これもイギリスの議会制民主主義を進めた名誉革命の反対派「ジャコバイト」の侵攻から「女王を守れ!」と歌ったものであり、被害者ポジションであることには変わりありません。

愛国心を鼓舞することは時として加害者にもなるわけですが、このように、国歌として世界で認められているものの多くは、「加害者ポジションだった出来事をルーツにしていないこと」が必要不可欠のように感じます。

日本には愛国ソングに使える材料が無い


では、日本の歴史はどうでしょうか? 言わずもがなですが、日本には他国によって不当に植民地化された経験がありません。当たり前のことですが、サンフランシスコ平和条約に関しても、過去の侵略戦争で受けた謹慎処分があけたというニュアンスであり、他国の独立とは全く様相が異なります。

また、侵略を受けたこともほとんど無いに等しい。
鎌倉時代の元寇も、被害を受けたのは九州の一部だけで、一瞬で終わっています。むしろ第二次世界大戦に至るまでの歴史上の大きな戦いは、ことごとく自ら侵略をする立場です。

さらに、圧政に対して人民が立ち上がって自由を獲得した経験も、全国規模ではありません。当然、今の私たちが享受している自由は、国民が自ら勝ち取ったわけではなく、戦後の連合国によってもたらされたものです。確かに1925年の普通選挙法のように、「カイゼン」がなされて一部の自由を獲得したことはありましたが、それも決して国民が主体となったボトムアップの運動ではありません。

このように、愛国心を鼓舞する際に用いられるような「国民が被害者ポジションで戦った歴史」が日本には無いのです。逆に言えば、加害者の歴史しかありません。ですから、日本が歴史上の出来事に依拠した愛国心を叫ぼうとすれば、自動的にそれは「加害者ポジション」になってしまうわけです。

歴史に無知な人が繰り出す神道スピリチュアル


戦いの歴史が愛国ソングに使えないとなると、どうするか。その多くが、「神道スピリチュアル」的要素に行き着きます。「HINOMARU」においても、「気高きこの御国の御霊」等、いかにも「神道スピリチュアル」なフレーズが随所に並んでいました。

ただし、当たり前のことですが、神道は戦前に国家神道として、侵略を正当化させたという側面もあるわけです。ですから、そのようなフレーズを聞けば、戦前の帝国主義を想起する人が多いのは当然でしょう。
「神道スピリチュアル」も結局は「加害者ポジション」なので、愛国心を鼓舞するものとして世界的に認められるはずが無いのです。

野田氏は「色んな人の意見を聞いていてなるほど、そういう風に戦時中のことと結び付けて考えられる可能性があると腑に落ちる部分もありました」と謝罪していますが、世界で仕事をする日本国民として、「神道スピリチュアル」がどう扱われているものなのかの認識すらも知らなかったことは、歴史に対してあまりに無知過ぎます。

災害を取り上げた点は良かったが…


このように、日本の歴史的背景は他国と比べると異質で、単純に外国を模倣することは出来ないのです。それでも、愛国ソングを作りたいというのであれば、これらの制約の中で作り出さなければならなりません。

では、日本において愛国ソングが成立させる際には何を用いれば良いのでしょうか? たとえば、日本人が一致団結して闘ってきたもので、唯一世界でも認めてもらえそうな点と言えば、台風・地震・津波・火山等の自然災害に対する戦いでしょう。自衛隊の軍隊的な面に関して否定的な人でも、災害救助に関する仕事を反対する人はほとんどいないはずです。

「HINOMARU」においても、それらの自然災害を想定して「どれだけ強き風吹けど 遥か高き波がくれど」と歌っており、野田氏も「大地震があっても、大津波がきても、台風が襲ってきても、どんなことがあろうと立ち上がって進み続ける日本人の歌」と弁明したように、その点においては良かったと思います。

ただし、災害に抗う日本人を神道スピリチュアルで脚色したことが悪かった。それに、良し悪しを抜きにしても、私たち日本人が災害の現場で自分たちを「御霊ガー!」と鼓舞してきたでしょうか? もちろんそんなことはありません。日本人を描写する上で、「災害への抗い×神道スピリチュアル」は事実ですら無いのです(※災害そのものを神の仕業と見ることはあります)。

ネトウヨは束縛する恋人と同じで愛国心音痴


野田氏は「自分が生まれた国をちゃんと好きでいたいと思っています。好きと言える自分でいたいし、言える国であってほしいと思っています」と述べていますが、「好き」と言いつつ犯罪行為・不法行為をするストーカーやセクハラのように、表現の手段を間違ってはいけないのは当然です。

仮にそれが正当な手段であったとしても、好きの気持ちをどう表現するかは個人の自由です。
今井絵理子氏等がグダグダの援護射撃をしていますが、「このような愛国ソングに賛同する人は愛国心がある人で、反対する人は愛国心の無い人!」等と白黒ジャッジをするネトウヨ思考は、「好きだったらLINEの返信1時間以内にしてくれて当然!遅いのは大切に思っていない証拠!」と、他人を表面でしか見ない恋愛音痴な人たちと同じで、「愛国心音痴」に過ぎません。

そして、RADWIMPSのライブに行ったファンTwitterを見ると、「HINOMARU」演奏後に「自分の生まれた国が好きで何が悪い!」とシャウトしたという情報もあり、結局野田氏は何も分かっていないのかと残念に思いました。上っ面の謝罪なんて要らないので、日本が好きな人たちにも「HINOMARU」が批判されている、好きだからこそ批判されているという現実を受け入れてほしいと思います。

そもそも、世界を見渡し見れば、「自分の国を好きと言う自由」はどこでも認められている一方で、「自分の国を嫌いと言う自由」が認められていない国がいまだにあるのです。そう考えると、実は「嫌い!」と言える国こそ成熟している証。この自由を失いたくないものですし、その自由を狩ろうとする人こそ、私たち日本人が戦わねばならない相手だと思うのです。
(勝部元気)
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