こうの史代原作、松本穂香主演の日曜劇場『この世界の片隅に』。太平洋戦争さなかの広島県呉市を舞台に、主人公・すずと周囲の人々との生活を描く。

「この世界の片隅に」が朝ドラっぽく見える理由。異例の「一切関知しておりません」声明から今夜3話
原作上巻

脚本は『ひよっこ』の岡田惠和、演出は『カルテット』の土井裕泰。音楽を連続ドラマは『坂の上の雲』以来となる久石譲が手がけている。

食事シーンを見ればその家がわかる


先週放送された第2話では、呉の北條家に嫁いできたすず(松本穂香)の毎日の生活ぶりが丹念に描かれていた。前半まるごと使って、周作(松坂桃李)との祝言の翌日と翌々日の2日間の様子を描いていたのには驚いた。とりたててドラマティックなことが起こるわけではないのだが、すずにとってはこれまでとまったく違う生活だ。

何より印象に残ったのが食事シーンの多さだ。第2話だけで、北條家で4回、浦野家で1回の食事シーンがあった。食事シーンは、かつて「めし食いドラマ」とも言われていたホームドラマの象徴だ。ドラマ版『この世界の片隅に』は“戦時下のホームドラマ”なのである。

食卓を見れば、その家のことがよくわかる。北條家の食卓は静かだ。航空機開発の技師を務める父の円太郎(田口トモロヲ)は必ず新聞や雑誌を読みながら食事をしていて、口を開くことがほとんどない。温和な母のサン(伊藤蘭)も円太郎をとがめることはなく、周作も生真面目に食べている。
径子(尾野真千子)と晴美(稲垣来泉)が帰ってきた後の気まずい食卓で円太郎が「にぎやかでええのう」と言うが、それまで誰も口を開いていないという一種のギャグだった。

一方、女3人の浦野家の食卓は大変かしましい。母のキセノ(仙道敦子)も妹のすみ(久保田紗友)も食べながらどんどんしゃべるし、すずもそれに応戦する。女3人に圧倒されている父の十郎(ドロンズ石本)は時折口を挟むのがやっとだ。とろんとしているが、芯の強さも持っているすずの性格は、こうした食卓で育まれたのかもしれない。

演出家・鴨下信一が語る「食事シーンの演出法」


ホームドラマ全盛期にTBSで『おんなの家』『岸辺のアルバム』など数多くの傑作ドラマを送り出した演出家の鴨下信一は何よりも食事シーンを重視しており、放送批評懇談会によるテレビ誌『GALAC』に「食事シーンの演出作法 重要10か条」というエッセイを寄稿している。

たとえば、「誠心誠意【献立(メニュー)】を作れ。他のことは二の次三の次だ」という項目があるが、これは食事の内容がドラマの内容に密接に絡んでいることを表している。山の上にある北條家の食事は野菜中心、海に近い江波で海苔養殖をしていた浦野家の食事には魚のてんぷらが出ていた。また、今後は食事の内容が戦争の激化を示していくことになる。

「食事の質は料理で決まるが、食事の【量】を表現するのは【食器】だ」という項目については、食器選びの大切さが説かれている。鴨下は肉体労働のとび職が登場するドラマを演出した際、脚本の向田邦子に「食器が小さい」と怒られたのだという。頭脳労働の北條家は食器がどれも小さい。
彼らのつつましい生活ぶりも同時に表している。浦野家も女性ばかりなので食器がどれも小さいが、大食漢の十郎だけ小さな食器にごはんを山盛りにしていたのが可笑しい。

「食事のシーンにもっと[外界]つまり[社会]を反映させよう」「食事は【食事を作る】シーンから描かないと万全ではない」という項目もある。食事の準備は、社会そのものを表すことが多い。商店街や八百屋で会話しながら買い物していた時代もあったが、今ならスーパーやコンビニで用足りる。本作なら重労働の水汲みから食事の準備ははじまっているし、配給の描写は戦時下の食糧事情を表している。近隣住民との関係も深い。台所で食事の準備をしながら母や姑、小姑(径子)と会話するところは、すずのその家で置かれている立場を示している。

余談だが、鴨下の後輩にあたる土井の演出作『カルテット』は、食事の内容とストーリーが非常に密接に関係していた作品だった。鴨下は「ドラマ制作の時に(衣装のスタイリスト、化粧の専門家はいるのに)食べ物の専門家を置かないのはなぜか」と提言していたが、同作ではフードスタイリストの飯島奈美を起用していた。

すずの「居場所探し」


北條家に嫁いできたすずを、足の悪いサンに代わって隣に住む世話焼きのタキ(木野花)が近隣の住人に紹介する。存在感を見せるのがドラマオリジナルキャラクターの刈谷幸子(伊藤沙莉)と堂本志野(土村芳)だ。

幸子は周作の幼馴染で、ずっと想いを寄せていたが、すずにかっさらわれたということになる。
近所の堂本家に嫁いできた志野は同じ境遇ということですずに優しい。幸子がすずに意地悪なことを言うこともあるが、なぜか志野は幸子が怒るのがツボらしく、いつも笑いが止まらなくなる。幸子も径子の前ですずのことをかばってみせるなど、根は優しい子だ。同世代の3人がお茶をしているシーンが微笑ましい。彼女たちとの関係は、すずにとって一つの居場所である。

第2話でのすずは、ひたすら「居場所探し」をしていた。料理や裁縫を頑張るのも、北條家を自分の居場所にするためだ。懸命に働くすずだが、径子の帰還によって立ちどころにすずは居場所をなくしてしまい、一時的に江波に里帰りする。そこで周作との出会いを思い出し、急いで呉に帰ってくる。

径子の姿を見てひるんでしまい、行き場を失ったすずが坂でたたずんでいると、志野と周作がほぼ同時に見つけるシーンが象徴的だ。呉でのすずの居場所をつくるのは、志野たちとの友情であり、なにより周作の深い愛情だ。周作の姿を見つけて、さりげなく身を引く志野がいじらしい。
彼女の夫は出征して帰ってきていない。

『この世界の片隅に』が朝ドラらしいのはなぜ?


毎回50人前後も出演者がいて、しかも若手の期待株が多い朝ドラ(連続テレビ小説)と出演者が被るからといって、そのドラマを「朝ドラ感が強い」と安易に言うのは抵抗があるのだが、『ひよっこ』で注目された松本穂香と、同じく『ひよっこ』で存在感を示した伊藤沙莉、『べっぴんさん』のメインキャストの一人だった土村芳の3人が揃うと、やっぱり朝ドラ感が強く漂う。

ほかにも、よく言われていることだが、松坂桃李(『わろてんか』)、尾野真千子(『カーネーション』)、宮本信子(『あまちゃん』『ひよっこ』)ら朝ドラで強い印象を残した俳優陣が大挙して出演している。だけど、『この世界の片隅に』が朝ドラっぽく見えるのは、キャスティングのせいだけではない。

朝ドラ食事シーンをはじめとする生活描写を丹念に行うホームドラマは、スリリングなストーリー展開が重視されるようになった80年代から90年代以降、いまや朝ドラぐらいしか残っていないと言えるだろう。ドラマ『この世界の片隅に』が朝ドラのように見えるのは、本作が「戦時下のホームドラマ」であろうとしているからに他ならない。また、戦時下という近現代を個人の生活を通して描くという本作のスタイルも、いまや朝ドラにしか残されていないものだ。

なお、7月24日にアニメ『この世界の片隅に』製作委員会が「ドラマの内容・表現等につき、映画に関する設定の提供を含め、一切関知しておりません」という異例の声明を発表した。ドラマ版には「special thanks 映画『この世界の片隅に』製作委員会」とクレジットされていたが、実はまったく関係ない、と言っているのだ。現時点でドラマ側からの公式な声明はまだない。今週もクレジットは残っているのだろうか?

本日放送の第3話は、戦時下の色彩がより濃くなっていく模様。すずとリン(二階堂ふみ)の再会も描かれる。
夜9時から。
(大山くまお)

「この世界の片隅に」
(TBS系列)
原作:こうの史代(双葉社刊)
脚本:岡田惠和
演出:土井裕泰、吉田健
音楽:久石譲
プロデューサー:佐野亜裕美
製作著作:TBS
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