「朗読座談会 村上春樹」のフライヤー
5月下旬、ベルリン森鴎外記念館で「朗読座談会 村上春樹」が開かれた。このイベントは、ドイツで出版されたばかりの『騎士団長殺し』とその翻訳の裏話について、ドイツ語訳を担当したウルズラ・グレーフェさんに話を聞くという企画だ。
当日は立ち見も出るほど盛況で、質疑応答の時間にはたくさんの質問が寄せられた。
村上春樹の作品はドイツでも人気が高い。村上氏の新刊が発売されるとドイツメディアではいくつもの書評が書かれる。時には公共放送の文学作品評論番組にも取り上げられる。文化の違いを越えて読まれる村上春樹の文学の人気を支えるものは何か。村上春樹のドイツ語訳の第一人者で座談会にも登壇した、翻訳家のグレーフェさんに話を聞いた。
ドイツ読者に新たな視点をもたらす「境界の曖昧さ」
「ドイツの読者が村上さんの作品にひかれるのは、彼の小説に出てくるキーパーソンが『地下世界』の闘士だという点です。彼の作品においては現実世界と非現実世界の境界が曖昧。それが、現実と論理を重視する傾向が非常に強いドイツの読者に新たな視点をもたらしています」(グレーフェさん)
ドイツメディアにおいて、この「境界の曖昧さ」は村上作品を語る上で重要なキーワードだ。独紙ベルリーナーツァイトゥングに掲載された『騎士団長殺し』の書評にも『村上春樹、この日本人作家は現実の境界を巧みに操る』というタイトルがつけられている。そしてドイツにおける村上文学の人気については、翻訳が果たしている役割も大きい。この重要性を物語るのはドイツ語版『国境の南、太陽の西』にまつわるエピソードだ。
「朗読座談会 村上春樹」で登壇するグレーフェさん(左奥)
2000年に発売された『国境の南、太陽の西』のドイツ語版は、同著の英語版から翻訳された。
そのため日本語版とドイツ語版の作風に大きな違いがあり、文芸評論家や作家の間でこの作品の評価についての大論争が巻き起こった。例えば、文学界の重鎮たちが出演するテレビ番組『ダス・リテラーリッシェ・カルテット』では、一方の出演陣は同作に高評価を与え、もう一方は「文学ではなく、文学風のファストフード」と酷評した。それが出演者同士の個人攻撃にまで発展した。
この論争は、ドイツにおける村上文学の翻訳の分岐点となった。この騒動をきっかけとして、『国境の南、太陽の西』の翻訳はグレーフェさんが担当することになった。従来は英語版からの翻訳もあった村上作品が、すべて日本語の原文からドイツ語に訳されるようになったのだ。
英訳を経由して独訳したことで生じた問題
ベルリンの書店で平積みされる『騎士団長殺し』
「この作品を日本語からドイツ語へ直接翻訳する作業はとても興味深いものでした。原文から訳したことで、これまでの作品は英訳を経由したために原文と変わってしまった部分があり、英訳の特徴がドイツ語の訳に影響を与えていることに気づきました。英訳では多くがくだけた口語体で表現されており、ドイツ語の旧訳も英訳のスタイルを踏襲しています。しかし、話し言葉を多用した訳のスタイルはドイツ語には不向きでした」(グレーフェさん)
ドイツ語の雰囲気に合った翻訳かどうかということも、グレーフェさんが翻訳をする際の大きなポイントだ。
「村上さんの作品を訳すときは、原作の持つ軽妙さや理解のしやすさに加えて、日常的でありながら謎に満ちた村上文学の雰囲気を保つように意識しています。村上作品に限らず翻訳全般に言えることですが、訳文の自然さや読みやすさは非常に重要。
読者が、翻訳ではなく、もともとドイツ語で書かれた作品を読んでいるような感覚を持つ仕上がりが大切です」(同)
原作の評価を左右するほどの役割を果たす翻訳。ドイツにおける村上文学の人気は、作品の本質を伝えつつ、ドイツ語としての読みやすさに配慮した翻訳により支えられている。
(田中史一)
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