NHK総合で今夜10時からスペシャルドラマ「太陽を愛したひと〜1964 あの日のパラリンピック〜」が放送される。主演の向井理が演じるのは、1964年の東京パラリンピック開催に尽力し、選手団長も務めた実在の整形外科医・中村裕(ゆたか。
1927〜84)だ。

中村裕は、障害者の自立をめざし、パラリンピックに代表される障害者スポーツの振興とともに、障害者たちが働く工場などを備えた「太陽の家」の設立に情熱を注いだ。二つは中村の活動において車輪の両輪ともいえるかもしれない。
今夜放送「太陽を愛したひと〜1964 あの日のパラリンピック〜」向井理演じる医師は何を実現したか
ドラマ「太陽を愛したひと〜1964 あの日のパラリンピック〜」の原案となる三枝義浩のマンガ『太陽の仲間たちよ』(画像は同作を収録した『パラリンピックとある医師の物語』講談社)。同作は、主人公の中村裕の同名の著書と、三枝が取材した事実をもとに構成したもの

イギリスで見たスポーツ療法の衝撃


中村は、九州大学の恩師である天児民和(あまこたみかず。ドラマでは松重豊が演じる)の指導のもと、当時未開の分野だった医学的リハビリテーションの道を歩み始めた。さらに国立別府病院(大分県別府市)の整形外科医長を務めていた1960年、障害者の自立の重要性に気づかされるできごとがあった。それは、イギリスのロンドン近郊ストーク・マンデビルの国立脊髄損傷センターにルートヴィヒ・グットマン(1899〜1980)という神経外科専門医を訪ねたことだ。
このグットマンこそパラリンピックの創始者である。

グットマンから「この病院の脊損患者(病気や事故で脊髄の機能を損ねて、下半身に麻痺などの障害を起こした人)の85%は6ヵ月の治療・訓練で再就職している」と聞かされた中村は初め、一体どんな特殊な外科手術が行なわれているのかと期待したという。だが、グットマンの“秘術”は手術ではなかった。その秘術とは第一に、複数の専門家(理学療法士、作業療法士、医療体育士など)で構成された回診チームによる科学的治療法であり、そして第二に、スポーツによるリハビリテーションで、患者の体に残っている機能を回復・強化するという治療法であった。

ユダヤ系ドイツ人だったグットマンは、1939年にナチス政権下のドイツからイギリスへ亡命し、1944年にストーク・マンデビルに脊髄損傷科(国立脊髄損傷センターの前身)を開設すると、スポーツを採り入れた治療法を確立した。第二次大戦後の1948年には、この治療法の成果を試すため、身体障害者によるスポーツ大会である第1回ストーク・マンデビル大会を開催している。
以後、この大会は毎年開催されるようになり、1952年にはオランダの選手が参加して国際ストーク・マンデビル大会へと発展。中村がグットマンを訪ねた1960年には、ローマでオリンピックに続いて国際ストーク・マンデビル大会が開催され、これがのちに第1回パラリンピックと定められた。

グットマンに触発された中村は、帰国するとさっそく地元で大分県身体障害者体育協会を組織し、協会主催のスポーツ大会を実現する。また、ストーク・マンデビル大会にも1961年、別府から2人の選手を連れて初参加した。こうした中村の努力のかいあって、徐々に関係者の認識も改まり、元厚生官僚の葛西嘉資を中心に日本身体障害者スポーツ協会が発足、1963年からは全国身障者スポーツ大会(現在の全国障害者スポーツ大会)が国民体育大会とあわせて開催されるようになる。この間、国際身障者スポーツ大会準備委員会が設立され、1964年の東京オリンピックに合わせてパラリンピックを招致した。


さまざまな問題を突きつけた東京パラリンピック


東京パラリンピックは、第18回オリンピック東京大会が閉幕した2週間後、1964年11月8日から12日までの5日間開催された。中村はその開催にあたり、資金の調達と運営準備に奔走し、会期中も多忙をきわめ、競技はほとんど見られなかったという。

今回のドラマでは、サブタイトルにあるとおり、中村が東京でのパラリンピック開催を実現するまでの様子がくわしく描かれるようだ。ただ、当の中村の著書『太陽の仲間たちよ』(講談社、1975年)には、全体の割合からすると東京パラリンピックについての記述は少ない。その内容も、パラリンピックの開催にこぎつけ、中村が達成感を抱くというよりはむしろ、多くの課題を突きつけられたことをうかがわせるものだ。

成績からして、この大会で日本選手が獲得した金メダルは卓球の一つだけ。バスケットボールでは、いちばん弱いフィリピンには勝てるだろうとの予想を覆し、大敗を喫してしまう。
競技以前に、外国人選手は筋骨たくましく、顔も明るいのに対し、日本選手は弱々しく、顔色も暗かった。中村は、そこにスポーツを普段やっているか否かという違いだけでなく、外国の選手とは日常の生活からしてまるで違うことに思いいたる。

外国人選手のほとんどは、弁護士や電気技師といった専門職を含む職業を持っており、なかには競技のあいまに商社などへ仕事に出かける選手もいた。これに対して日本の選手53名のうち、仕事を持っているのはわずか5人、それも自営業ばかりだった。ほかはすべて自宅か療養所で誰かに面倒を見てもらっている者ばかりで、中村に言わせると《元気がないのは当然だった》(『太陽の仲間たちよ』)。当時の日本では、身障者は保護するべき対象という考えが根強く、身障者が自活し、自由に外を動き回れるような体制は整えられていなかったのである。


東京でのパラリンピックを通して、さまざまなことに気づかされた中村は、選手団の解団式で選手たちに、《外人に負けてはいられない。そのためにも社会復帰できる施設をかならずつくらなければならない──》と宣言したのだった(『太陽の仲間たちよ』)。彼が別府市に太陽の家を設立したのは、この翌年、1965年のことである。

「社会的福祉はお金と力によって現実のものになる」を信条に


先述のとおり身障者を社会で受け入れる体制がほとんどなかった当時、交通事故や労働災害などで体が不自由になった人が復職や再就職するのは容易ではなかった。身障者に対し、就労または技能習得のため必要な機会や便宜を与える授産施設はあったとはいえ、そこも訓練期間が終われば出て行かざるをえない。中村はこうした状況を変えるべく、障害者が訓練を受けるだけでなく、仕事に就いて自活できるまでになることをめざし、太陽の家を設立したのだ。

太陽の家は従来の授産施設とは異なり、自前の工場を持って収益を上げるという株式会社的施設をめざしていたため、厚生省の役人などからはなかなか理解を得られなかった。
それでも彼は、粘り強い説得とともに、妥協できるところは妥協しながら、理想を少しずつ現実化していく。それは入所者の仕事を得るため、企業と折衝するにあたっても同様だった。

中村は高い理想を掲げながらも、一面では徹底したリアリストであったともいえる。それは著書の次の一文からもうかがえよう。

《[引用者注:経済]成長と福祉は、結局、ニワトリとタマゴの関係なのだ。矛盾ではなくバランスの問題であり、社会的福祉はお金と力によって現実のものになる。福祉を理想化し、お金や権力の利用をしりぞける精神主義があるが、そうした幻想的ロマンチシズムは一つの自己主張にはなっても、福祉の充実につながるものにはなり得ないだろう》(『太陽の仲間たちよ』)

太陽の家の事業は、パイプ椅子づくりのように一時は自主生産・自主販売に踏み切りながら、販売ミスから撤退したものもあったが、その後も協力企業を得ながら拡大していく。さらに1972年に立石電機(現・オムロン)と提携して共同出資会社「オムロン太陽電機株式会社」を設立したのを皮切りに、ソニーやホンダなどの大企業と会社をつくって、多くの重度障害者を雇用し、実績を上げている。

全障害者に開かれたスポーツ大会を実現


ところで、パラリンピックという名称はもともと、脊髄損傷を意味するパラプレジアとオリンピックを組み合わせた造語だが(1964年の東京大会で愛称として名づけられた)、その後、それ以外の障害者も参加するようになり、現在では「もう一つの(パラレル)オリンピック」という意味を込めて使われている。

パラリンピックの参加者の幅を広げるにあたっても、中村裕は大きく貢献している。彼はアジアやオセアニアの国々に呼びかけて、1975年に第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック。現在のアジアパラ競技大会)を大分で開催。このとき、派遣費の出せない国には費用を日本側が負担すると約束して17ヵ国を集めるとともに、あらゆる障害者を対象とした大会とした。

パラリンピックの創始者であるグットマンも、大会開催に合わせて来日している。それまで、中村が脊損以外の障害者の参加を提案しても「時期尚早」と答えてきたグットマンだが、フェスピックの成功を見てついに折れた。おかげでパラリンピックも翌76年のカナダでの大会からは全障害者が参加できるようになったのである。

中村裕の夢見た社会ははたして実現したか?


障害者を一定割合以上雇用することを定めた「障害者雇用促進法」が成立したのは、中村がグットマンと出会った1960年のことである。ただし、このときはまだ雇用者の雇用は事業者の努力目標だった。それが1976年には法的義務となる。今年4月からは、雇用義務の対象に精神障害者が加わった。

それが、最近になって中央省庁が雇用する障害者の数を42年間にわたって水増しし、定められた目標を大幅に下回っていたことが発覚、地方自治体などでも調査したところ、水増しの事実が次々とあかるみになっている。

東京パラリンピックから半世紀以上が経ち、かつてとくらべれば障害者をめぐる法律が整備され、バリアフリーの充実など環境の改善が進んだことは間違いない。しかし肝心の法律が空文化していたとすれば嘆かわしい。それとともに、はたして中村の夢見た障害者が自立して生活できる社会に、どのレベルにまで達したのか、あらためて省みる必要があるのではないか。今回のドラマ「太陽を愛したひと」がそのきっかけになることを願ってやまない。
(近藤正高)

【ドラマデータ】
「太陽を愛したひと〜1964 あの日のパラリンピック〜」
脚本:山浦雅大
原案:三枝義浩『太陽の仲間たちよ』(『パラリンピックとある医師の物語』講談社に再録)
音楽:栗山和樹
主題歌:サラ・オレイン
出演(かっこ内は役名):向井理(中村裕)、上戸彩(中村廣子)、志尊淳(土山アキラ)、安藤玉恵(村上久子)、山口馬木也(土山正之)、尾上松也(畑田和男)、飯豊まりえ(岸本茜)、田山涼成(立石一真)、松重豊(天児民和)、 岸惠子(中村廣子【現在】)
制作統括:千葉聡史(NHK)、島田雄介(NHKエンタープライズ)、中尾幸男(テレパック)
演出:佐々木章光(テレパック)