「第14話 夜はやさし」が今日10月11日(木)25:05より、フジテレビ”ノイタミナ”ほかで放送。

アッシュの死生観
今回大きな改変が2つ。
1つはアッシュがエイジに「キリマンジャロの雪」の話をする場面が移動し、回想になったこと。
もう一つは、オーサーの指が動かなくなった原因となった、過去の決闘シーンが入ったこと(原作では原因そのものがシーンとして入っていない)。
この2つがうまい具合に、アッシュとオーサーの性格と死生観を、アクションが多い一つの話の中で表現してくれた。
アッシュが話した『キリマンジャロの雪』は、ヘミングウェイの小説。
雪で覆われた頂上近くにある、干からびて凍りついた一頭のヒョウの死体のエピソードだ。。
アッシュ「奴はなぜ、何のためにそんな高地へとやって来たのか。獲物を追い彷徨ううちに、戻ることのできない場所へ迷い込んでしまったのか、それとも何かを求め、憑かれたように高みへと登り詰め力尽きて倒れたのか」
「奴の死体はどんなだったろう? 戻ろうとしていたのか? それともなお高みへと登ろうとしていたのか。いずれにせよ、やつはもう二度と戻れないことを知っていたに違いない」
「バナナフィッシュ」の世界を表現する、重要なセリフの1つ。
アッシュは、自分が何をしたいのかわからずひたすらに人を殺し、暴力の世界で生き抜いている。前回ではオーサーについた人間を容赦なく射殺しながら、自分が何なんなのかわからなくなっていた。
彼は周りに仲間はいるものの、ヒョウと同様孤独しか感じていない。怖い、悲しい、という感情すら、「死」に対して抱くことができていない、空虚な状態だ。
それに対しエイジは、確固とした態度で語っている。
エイジ「人間は運命を変えることができる。ヒョウにない知恵を持って。そして君はヒョウじゃない。そうだろ?」
エイジはアッシュに、知識ではなく「知恵」があることを認め、「君はヒョウじゃない」と言うことで彼の視野を変えた。キリマンジャロの頂上に突き進みかけていた彼の感情は、エイジに認められたことで、既に変化しはじめている。
これを思い出したのは、電車内で「死ぬかもしれないな、今度こそ」と感じていた時だ。
今まで死の淵でも、何も感じていなかった彼。それがふとエイジ頭に浮かぶくらいには、彼の死生観は変化しはじめている。
登りすぎたヒョウ
アニメオリジナルの、過去の決闘シーン。一騎打ちで、オーサーは卑怯な手を使おうとした。感づいたアッシュにオーサーはねじ伏せられ、指が動かないように斬りつけられている。
これがオーサーの「卑怯者」の烙印となった。
今回は、決闘の現場に電車を突っ込ませて、部下に銃を乱射させ、アッシュを追い込もうとした。
スナイパーを構えさせるとか、毒を潜ませるとか、いくらでも手はあったのに、オーサーが仕組んだ罠はあまりにも雑で派手すぎる。
オーサーの「卑怯」は、「狡猾さ」とは全く別物。思慮深くなく、感情的だ。
彼が今回のやり口で仮にアッシュを殺したとしても、他のギャングたちにも警察にも市民にも、完全に見捨てられることになる。覚悟の上というよりも、そこまで考えるつもりがオーサーにはない。
オーサーがアッシュへの憎しみで他が全く見えなくなる様子は、キリマンジャロに登りすぎて死んだヒョウとそっくりだ。
ただし、電車の中でアッシュに「フレデリック!」と呼ばれたシーンは、彼を目覚めさせるに十分なものだった。
アッシュが鬼のごとくオーサーの部下を射殺していた時「奴はただの人間だ、ただのガキなんだぞ、神聖視するのはやめろ!」と叫ぶシーンがある。
アッシュのことを「ただの人間」として見ることができているのは、同年代だとショーターとエイジくらいしかいない。
アッシュは彼を「フレデリック」とファーストネームで呼んだ。ショーターやエイジと同じ位置の、1人の人間として、オーサーが並んだ瞬間だ。
オーサーが二度も卑怯な手を使った、一騎打ち。アッシュはそれを最後まで受け入れてくれた。
オーサーは負けてしまったが、アッシュと真剣に向き合えた、という面ではかなり報われたはずだ。
報われていないのは、ゴミのように次々死んでいくギャングの部下たちだ。
殺されたオーサーが地面に落下するシーンで、腕を振り上げて喜ぶギャングたち。「世界が違う」とアッシュは言っていたものの、エイジ視点で見ると異常。アッシュがエイジに「お前に見ていられたくないんだ!」と叫んだのは、その視点がわかっているからだろう。
モブである少年たちも、みんなキリマンジャロに登るヒョウだ。
目的はなく、ただがむしゃらにドンパチやらかして、無駄に命を散らしていく。
(たまごまご)