58年前のきょう、1960年10月12日、川崎球場で大洋ホエールズ(現・横浜DeNA)と大毎オリオンズ(現・千葉ロッテ)による日本シリーズの第2戦が行なわれた。

この試合では6回表、大毎が「ミサイル打線」の主砲・榎本喜八の2ランにより先制したが、大洋もその裏ですぐ同点に追いつくと、7回には勝ち越した。
8回表には大毎が一死満塁の逆転のチャンスを迎えるも、大洋のエース・秋山登を相手に、6番打者の谷本稔がスクイズに失敗して逸機。結果、大洋が3−2の1点差で逃げ切り、前日の第1戦に続き勝利する。その夜、大毎監督の西本幸雄は、球団オーナーの永田雅一から、ヒットが出れば逆転という場面でスクイズを指示したことを電話で叱責されたという。

結局、このときのスクイズ失敗がシリーズの流れを決め、大洋は4連勝して初の日本一となる。それまで万年最下位といわれてきたチームを頂点へと導いた大洋監督・三原脩(おさむ)の采配は「三原マジック」と称賛された。一方、西本はシリーズ閉幕後、監督を辞任している。

『テロルの決算』「七生報国天皇陛下万歳」社会党委員長刺殺事件を30歳沢木耕太郎は書かねばならなかった
右翼少年が社会党委員長・浅沼稲次郎を刺殺する過程を追った沢木耕太郎『テロルの決算』(新装版、文春文庫)。序章では少年をめぐる一つの“伝説”が示されるのだが、著者はその真偽を確認するべく、最後の最後で偶然に導かれるようにある医師のもとを訪ねる。この展開も非常にスリリングだ

日本シリーズ中継中に速報された社会党委員長刺殺事件


日本シリーズ第2戦はこの日午後1時に始まり、NHKテレビとKRテレビ(現・TBSテレビ)で生中継された。NHKはちょうどそれと重なる形で、午後2時から自民・社会・民社の三党首演説会を東京の日比谷公会堂にて東京都選挙管理委員会・公明選挙連盟と共催し、ラジオで生中継するとともに、テレビでは日本シリーズ放送のあと3時45分より録画中継する予定だった。

だが、試合が終盤に入っていた午後3時5分、大事件が起こる。社会党委員長の浅沼稲次郎が演説中、17歳の少年に刺されたのだ。少年は演壇に上がったかと思うと、浅沼めがけて突進し、短刀でまず左脇腹、次いで左胸を刺した。浅沼は4、5歩よろめくと、舞台に倒れこむ。流血はほとんどなかったものの、それは脂肪が傷口をふさいだだけのことで、出血多量によりまもなく絶命した。


NHKテレビが事件の第一報をテロップで伝えたのは、日本シリーズでの大毎のスクイズ失敗の直後、事件発生から15分後の3時20分だった。事件の瞬間はビデオテープに記録され、繰り返しテレビで流された。演壇の真下の記者席にいた毎日新聞の写真部員・長尾靖は決定的瞬間をとらえる。そこには、なおも突こうと刀を構える少年と、いままさに崩れ落ちようとする浅沼の姿が写し出されていた。この写真は全世界に配信され、のちに長尾は日本人初のピュリッツァー賞を受賞する。

浅沼は救急車で日比谷病院に運びこまれたが、3時45分に死亡が発表される。
このあと10月14日に荼毘に付され、5日後の17日に召集された臨時国会では、事件を目の前で見ていた自民党総裁で首相の池田勇人が追悼演説を行ない、大衆のために奉仕することを信条とした浅沼を讃えた。社会党葬は事件の1週間後に行なわれた。

少年はその場で取り押さえられ、丸の内署から警視庁に移送されると取り調べを受けた。右翼団体の大日本愛国党の元党員であったことから、誰かに使嗾(しそう)されたとの見方も強かったが、本人はそれを否定、自分ひとりでやったことだと主張する。事件から3週間後の11月2日には、彼は身柄を練馬の少年鑑別所に移されるも、その夜、単独室で自ら命を絶った。室のコンクリートの壁には、「七生報国 天皇陛下万歳」の文字が、歯磨き粉を水で溶いて指で書かれていたという。


沢木耕太郎が追った浅沼稲次郎と少年O


ノンフィクション作家の沢木耕太郎がこの事件を追った『テロルの決算』を著したのは、ちょうど40年前の1978年9月のことである。当時30歳の沢木にとって、これが初の長編だった。膨大な取材をもとに、浅沼と少年が交錯するまでの過程を徹底した三人称、圧倒的なディテールをもって描き出した同作は、いま読んでも新鮮である。その手法は、このころアメリカで隆盛していたニュージャーナリズムに影響されたものだ。

この本を読むと、事件が偶然に次ぐ偶然の末に起きてしまったことがわかる。少年が日比谷公会堂での三党首演説会の開催を知ったのは、当日の読売新聞朝刊の告知欄によってだった。本書の冒頭では、少年の家では新聞は長らく朝日か毎日を購読していたが、その数ヵ月前より強引な勧誘で読売を取るようになっていたこと、さらに演説会の告知が出ていたのは同紙だけで、それがのちのち重要な意味を持ってくることが示唆される。


凶器となった短刀は、少年の父親が所持していたものだが、それを彼が見つけたのもやはり偶然だった。さらに少年が演説会中に檀上までたどり着くことができたのも、警備体制の甘さに加え、会場に集まった右翼団体がヤジやビラ撒きなど妨害を繰り返したため、そこに警備陣の目が集中していたからだった。このように少年が浅沼を標的として、まるでゲートを一つひとつ開くように近づいていくさまは、怖気立つほどだ。

本書では、少年の足取りと並行して、浅沼の数奇な人生にも、彼が自伝で書かなかった空白部分を埋めながら迫っている。被害者と加害者いずれにも等しく距離を保つ本書のクールな視点は、沢木の年齢によるところも大きかったらしい。彼はあとがきで次のように明かしている。


《年齢が作品にとって特別な意味を持つことは、あるいはないのかもしれない。しかし、五年前であったら、これは山口二矢[おとや。犯人の少年の名──引用者注]だけの、透明なガラス細工のような物語になっていただろう。少なくとも、浅沼稲次郎の、低いくぐもった声が私に届くことはなかったに違いない。そして、これが五年後であったなら、二矢の声はついに私に聴き取りがたいものになっていたかもしれないのだ。五年前でも五年後でもない今、『テロルの決算』は山口二矢と浅沼稲次郎の物語として、どうにか完成した》(「あとがきI」、『テロルの決算』文春文庫)

偶然の連鎖が事件を生んだことをあきらかにした本書は、それ自体が偶然ともいうべき、絶妙のタイミングで成立したものだったのである。

あいつぐテロに対しメディアは…


浅沼事件の前後には、右翼がらみのテロが頻発していた。6月には、日米安全保障条約の改定をめぐり激しい反対デモが連日繰り広げられるなか、衆議院で請願を受けつけていた社会党顧問の河上丈太郎が元工員の青年にナイフで刺され、軽傷を負った(この犯人は右翼ではなかったが)。また7月には、前首相の岸信介が、官邸での池田新総裁就任の祝賀会場で右翼に襲われ、大腿部を刺されている。

さらに翌61年2月には、浅沼事件の犯人と同じく元大日本愛国党員だった17歳の少年が、中央公論社の嶋中鵬二社長の自宅に侵入し、手伝いの女性と嶋中夫人を殺傷するという事件が起こった(嶋中事件)。この前年、「中央公論」1960年12月号(同年11月発売)に、天皇を題材とした深沢七郎の風刺小説『風流夢譚』が掲載され、版元の中央公論社は宮内庁より抗議を受けて陳謝する一方、右翼による糾弾もあいついでいた。

嶋中事件と前後して、大江健三郎が浅沼事件に着想を得た短編『政治少年死す(セヴンティーン第二部)』を、文藝春秋新社の「文學界」1961年1月号(60年12月発売)に発表したが、やはり右翼の激しい糾弾を受け、同誌3月号に編集長の名で謝罪文が掲載される事態に発展している。この小説のなかには、大江の分身と思しき青年作家が、主人公の右翼少年に脅されながらも抵抗する場面があるだけに、皮肉というしかない。なお、同作は長らく単行本未収録のままだったが、今年7月に刊行の始まった『大江健三郎全小説』の第3巻(講談社)に収録され、60年近くを経てようやく日の目を見た。

これら一連のテロ事件において、このころ勃興しつつあったテレビを含め、メディアのはたした役割はきわめて大きい。浅沼事件の決定的瞬間がテレビや写真で即座に伝えられたことは先に書いたとおりである。嶋中事件では、発生の3週間前、NET(現・テレビ朝日)の番組に、犯人の少年を含む若い党員8人と愛国党総裁の赤尾敏が出演し、そのなかで赤尾は『風流夢譚』を痛罵し、「俺があいつを殺せと言ったら、俺を信じて“やれ”。そこまで徹底的に信ずるとき、皆も救われるし、国も救われるんだ」と発言していた(『読本 犯罪の昭和史3』作品社)。赤尾は事件後、殺人教唆の容疑で逮捕されている。

メディアとテロ事件の関係はこればかりではない。浅沼稲次郎は殺される前年の1959年、中国訪問時の演説で「アメリカ帝国主義は日中共同の敵」と発言し、物議を醸した。『テロルの決算』は、この発言が前後の文脈から切り離された形で、新聞などでしきりにとりあげられたために、右翼を刺激し、ひいては浅沼事件の遠因になったことを指摘している。

誤解やデマにより人々が煽られるということは、最近のいわゆるフェイクニュースの問題でも見られる。このほか、表現の自由や、センセーショナルな言動をいかに扱うのかといった問題、さらに青年の純粋な心情を利用する人物や団体の存在など、浅沼事件をはじめ1960年代初めに起こったテロ事件は、現在にあっても私たちにさまざまなことを考えさせる。
(近藤正高)