「NEWS23」は“敗戦処理番組”として始まった
1980年代後半、久米宏をメインキャスターに据えたテレビ朝日の「ニュースステーション」(1985年放送開始)が成功を収めて以来、他局もあいついで夜のニュース枠の開拓に乗り出し、「ニュース戦争」とも呼ばれる様相を呈していた。TBSもまた、「ニュースステーション」にぶつけるべく平日10時台を従来のドラマ枠から変更し、1987年10月より森本毅郎をキャスターに「JNNニュース22・プライムタイム」をスタートさせたものの、視聴率がふるわず1年で終了。後番組の「JNNニュースデスク」も苦戦を強いられ、結局わずか2年で同局は10時台のニュースから撤退した。
「NEWS23」は、初代総合プロデューサーの諫早修いわく先述のような経緯から“敗戦処理番組”として始まった(諫早修「番組誕生の舞台裏──筑紫さんとの不思議なめぐり合わせ」、市川哲夫編『70年代と80年代 テレビが輝いていた時代』毎日新聞出版)。番組開始にあたりメインキャスターに起用された筑紫哲也は、朝日新聞社にあって政治部記者やワシントン特派員などを経て、週刊誌「朝日ジャーナル」の編集長やテレビ朝日の報道番組「こちらデスク」のキャスターも務め、スター記者として知られた。じつはTBSは前出の「プライムタイム」の企画時にもキャスターの本命として筑紫に出演交渉を行ない、当人も乗り気だったというが、主に朝日側の事情で立ち消えとなっていた。それがあいつぐニュース番組の頓挫を経て、同局は夜11時台に時間帯を移して新番組を立ち上げるにあたり、再び筑紫にラブコールを送ったのである。筑紫は家族と相談のうえキャスター就任を決めると、30年間勤めた朝日新聞社ときちんと話をつけて退職した。
1989年10月2日の「NEWS23」(以下「23」)第1回の冒頭では、筑紫が暗いスタジオの中央に立ち、「照明をあげてください」と声をかけると、ライトの光量が上がる。そこにはスタッフ全員が勢ぞろいしていた。筑紫は「このみんなで番組をつくります」と言うと着席し、番組が始まった。
なお、放送開始時から2007年に筑紫が病気のため降板するまでの同番組の正式なタイトルは「筑紫哲也NEWS23」であり、番組で筑紫に与えられた役回りは「キャスター編集長」というものだった。諫早修によれば、いずれも筑紫カラーを前面に押し出すため、本人に受け入れてもらったものだという(「番組誕生の舞台裏」)。
“編集長”としてのモットーは「君臨すれども統治せず」
キャスター編集長としての筑紫のモットーは「君臨すれども統治せず」というものであった。すなわち、トップが号令をかけるのではなく、おおまかな方向性を示したら、あとは現場のスタッフたちの判断に任せるというスタイルである。
「23」キャスター時代の筑紫は夕方、いったん局に入って打ち合わせをすると、再び外に出て、映画や演劇、コンサートを観たり、ときにはパーティーに出るなどしたあと、本番直前になってくるというのが常であったが、それもこうしたスタイルだからこそ可能だった。1994年から8年間「23」のデスクを務めた金平茂紀(現・「報道特集」キャスター)によれば、時には放送開始の1時間前、午後10時すぎになっても姿を見せず、スタッフたちをやきもきさせたという(金平茂紀「『筑紫哲也NEWS23』とその時代 第5回」、『本』2014年6月号)。
番組開始時の「23」は、ニュース(報道局担当)とスポーツコーナー(スポーツ局担当)の第1部(50分)と、前番組「情報デスクToday」の流れを汲む第2部(40分、社会情報局が担当)で構成された。このうち第2部は、「時の人」の生出演のほか(初回放送では映画監督第1作「この男、凶暴につき」を手がけた直後のビートたけしがゲスト出演した)、カルチャーもの、硬派のドキュメンタリー、政治家たちの放談など、何でもありの“解放区”的な位置づけだった(金平茂紀「『筑紫哲也NEWS23』とその時代 第2回」、『本』2014年3月号)。朝日新聞時代、週刊誌「朝日ジャーナル」の編集長を務め、自分にもっとも合う職業は編集者とも言っていた筑紫の面目躍如であったといえる。第2部には「情報デスクToday」からスタッフの半数が異動するとともに、アシスタントだった阿川佐和子もスライドしてサブキャスターを務めた。
阿川がのちに語ったところによれば、ゲストとのトークでは、筑紫が乗っているときには自分は引いて任せる一方、乗っていないな、疲れてるなと思うと筑紫に代わってイニシアチブをとるようにしていたという(週刊朝日ムック『筑紫哲也 永遠の好奇心』朝日新聞出版)。「23」をアメリカ遊学のため退いたあと、帰国とともに週刊誌で連載対談を始めた阿川にとって、同番組はインタビュアーとしての技術を磨く場であったのかもしれない。
ニュース番組に初めて主題歌がついた
「23」はニュース番組でありながらミュージシャンが主題歌を提供した点でも画期的だった。番組スタート時の主題歌である井上陽水の「最後のニュース」は、筑紫が麻雀仲間でもあった陽水に直々に依頼したものである。できあがったデモテープは、筑紫の不在時にTBSに届けられたが、サビ以外はメロディがなく、当時の社会問題などを反映したフレーズがまるでしゃべるように歌われたその曲に、スタッフたちは戸惑ったという。
これ以降、「23」のエンディングでは筑紫が選んださまざまなミュージシャンによる楽曲が流された。そのジャンルもロックやポップス、フォークなどさまざまで、筑紫が終生愛した沖縄からもネーネーズなどのバンドが曲を提供している。1997年の第2部の廃止を機に、坂本龍一がやはり筑紫直々の依頼により「Put Your Hands Up」を書き下ろし、オープニングとエンディングでバージョン違いの楽曲が流された。
この伝統はその後も引き継がれている。今年6月には、新キャスターに小川彩佳が就任したのにともない、オープニングのためサカナクションの山口一郎が新曲「ワンダーランド」を書き下ろしている。またエンディングテーマには、イエローモンキーの楽曲「Changes Far Away」が採用された。
「TBSは死んだ」発言の真相
「23」でもっとも筑紫カラーが表れたのは、彼が毎回90秒間(のち80秒に短縮)、一人でカメラに向かって私見を述べるコラムコーナー「多事争論」だろう。これは筑紫の提案で、番組開始4年目の1992年秋より始まった。タイトルに掲げたのは福沢諭吉の『文明論之概略』に出てくる造語で、「なるだけ多くのことをなるだけ論じ合ったほうがいい」という意味である。同コーナー設置の意図としては、《映像がないとニュースにはなりにくい、というテレビの制約、宿命で、取り上げて当然と思えるニュースが「絵にならない」という理由で落ちているのを何とかカバーしたい》、《こちらがどんなつもりと事情で日々、番組をやっているのか「手の内」をできるだけさらすことで、「送り手」「受け手(視聴者)」の間にある深い溝を少しでも埋めたい》などといった、番組をつくっていく上での実際的な理由もあったようだ(筑紫哲也『ニュースキャスター』集英社新書)。
この「多事争論」でもっとも波紋を広げたのが、TBSのいわゆるオウムビデオ事件の際に「TBSは死んだ」と要約されて伝えられた1996年3月25日放送の同コーナーでの発言である。
オウムビデオ事件とは、1989年、TBSのワイドショー担当者が、坂本堤弁護士(当時「オウム真理教被害者の会」の活動に従事していた)への未放映インタビュービデオをオウム真理教幹部に見せたことが、教団による同弁護士一家殺害につながったのではないかと問題視されたもので、1995年10月、日本テレビのスクープによりあかるみとなった。
疑惑を受けて、TBSは社員による内部調査を実施し、翌96年3月11日に調査結果報告書を公表したが、その内容は「ビデオを見せた事実は出てこなかった」というものだった。しかし、筑紫は朝日新聞のアメリカ総局員時代にウォーターゲート事件を取材した経験などから、既視感と悪い予感を抱く。そこで調査結果が出る前に、報道局長に対し「継続審議」「第三者調査委員会」「責任の明確化」を求めるメモを渡したという(『ニュースキャスター』)。だが、結果発表の翌日の記者会見でTBS側は調査の打ち切りを表明してしまう。
「ビデオは見せていない」としたTBSの調査結果は、その2週間後の3月25日に覆される。この日、捜査当局に押収されていたオウム真理教幹部のいわゆる「早川メモ」を入手したことで、TBSは一転して「見せた」と局の見解を変えたのだ。筑紫のくだんの発言が出たのはこの夜の放送においてだった。ただ、世間では「TBSが死んだ」という言葉が一人歩きして、センセーショナルに受け止められたのに対し、実際の発言はちょっとニュアンスを異にする。このとき筑紫はまず次のようにコラムを始めた。
《報道機関は、形のある物を作ったり売ったりする機関ではありません。そういう機関が存立できる最大のベースは信頼性です。特に視聴者との関係においての信頼感です。
筑紫はそう語ったあとでさらに、自分はその日の午後までは番組を辞める決心をしていたが、社内にはこれから信頼回復のために努力しようとしている人たちもおり、しばらくのあいだはその人たちと一緒に努力をしたいと思い直して翻意したとも明かした。そして最後は、彼がTBSを代表する形で、視聴者に対し信頼回復に努めることを誓い、それこそが坂本一家に対するせめてもの償いだと思っていると述べ、その夜のコラムを締めくくった。こうして全体を振り返ると、筑紫の発言は“死亡宣告”などではなく、むしろ深い反省のうえ再出発を期す誓いの言葉であったことがうかがえよう。
じつは、コラム中の「TBSは死んだに等しい」との発言は、この日の放送直前まで議論を続けるなかで、一人のスタッフが発した言葉を“拝借”したものだった。
《今日でTBSは死んだんですよ。そう思って、これからどう生き返るのかを考えたほうがいい》とそのスタッフが口にしたとき、筑紫たちは一瞬、凍りつきながらも、正確な現状認識だと受け止める。本番まぎわ、筑紫はくだんのスタッフに《さっきの君のことば、もらってもいい? もちろん、ぼくの責任でしゃべるつもりだけど》と声をかけて承諾を得ると、スタジオに駆け込んだ(『ニュースキャスター』)。そのスタッフの名前は佐々木卓(たかし)──現在のTBSテレビ社長である。
オウムビデオ事件はTBSにとって大きな汚点となったが、社員のなかから覚悟をもって意見が発せられ、それを局の看板キャスターが受けとめ、視聴者に伝えたことは唯一の救いではなかっただろうか。
小川彩佳は「筑紫イズム」の継承者か?
筑紫はその後、病気のため、2007年12月にメインキャスターを共同通信社の後藤謙次に譲り、翌年3月には正式降板して番組名から彼の名前が消えた。
出演初日(6月3日)の番組冒頭、小川は《今やスマホで、どこでもだれでも簡単にあらゆる情報にアクセスできる時代に、このようにテレビをつけて『NEWS23』をのぞきに来てくださっているみなさんと、私自身も一緒に、考え、感じ、気づき、そして触れる。ネットを見ながらでもいいですし、晩酌しながら、また半分お布団に入っている状態でもいいです。一緒にこうしてつながっていられる、そんな1時間を毎晩もてたらと思います》と挨拶(「スポーツ報知」2019年6月3日配信)。そのあとも話すのはほとんど小川と各コーナーのゲスト解説者で、同番組に2016年よりレギュラー出演するアンカーの星浩は冒頭から30分ものあいだ一言もしゃべらず、サブキャスターの山本惠理伽アナウンサーも相槌を打つ程度。これについて、あるTBS報道局のベテラン記者は《“小川彩佳のNEWS23”にするという意気込みを感じました。今後も小川アナ主導の企画がいくつも進んでいると聞いています》とコメントしている(『週刊ポスト』2019年6月21日号)。
ネット言論における分断をとりあげた初回の特集に対しては、メディア関係者の評価もおおむね高かったようで、《報道番組のメインキャスターとしてまず本丸の「言論」を押さえておこうというガッツには信頼が置けました》との「日刊スポーツ」記者・梅田恵子の評もある。
メインキャスター主導のスタイルをはじめ、小川彩佳を起用した新生「23」に対しては、筑紫哲也のイズムの継承を見て取る向きも結構多いようだ。じつは昨年秋の改編で「23」のプロデューサーに就任したTBS報道局の米田浩一郎は、筑紫時代から同番組にかかわってきた人物である。米田は、プロデューサー就任直後、月刊誌の取材に対し、《その日1日に起きたことをしっかりと、全体像としてとらえられるように伝えることが、筑紫哲也さん時代からの使命と考えています》と、やはり筑紫イズムの継承を強調していた(『創』2019年1月号)。
小川に白羽の矢を立てた張本人とも伝えられるTBSの佐々木卓社長も、先述のとおりかつて「23」のスタッフとして筑紫に薫陶を受けた一人だ。こうして見ると、小川彩佳のメインキャスター起用は、昨秋来進められてきた「23」の原点回帰の延長線上にあると見ても、あながち間違いではなさそうである。もっとも、佐々木は『週刊文春』の取材に対し、《頑張ってほしいなと思ってるんで。応援している。(筑紫イズムの継承?)前の方のことを言われてもね。今の人に失礼だから》と応えているのだが(『週刊文春』2019年6月20日号)。
筑紫がキャスターに就任したころといまとでは、テレビニュースを取り巻く状況も大きく変わった。筑紫の「多事争論」のようなスタイルは、いまの視聴者からすると、ともすれば“上から目線”とも受け取られかねない。小川は「23」のキャスター就任直後、ジャーナリストの田原総一朗から対談でどのような番組にしていきたいかと訊かれ、《テレビで発信する私たちが視聴者の方々と繋がっていき、一つの地続きの空間をつくっていくような番組にしたい》と答えていたが、それも送り手と受け手が同等であることが求められる時代ゆえだろう(『文藝春秋』2019年7月号)。
小川はまた別の対談で、《私の仕事はニュースの言外に漂うものは何か、取材の網からこぼれ落ちそうになっているものはないか、そういったところをすくい取ることではないかと、この1ヵ月で感じています》と語っていた(『週刊文春WOMAN』2019年夏号)。このあたりは筑紫の姿勢と似ているかもしれない。そこで私が思い出したのは、彼が著書『ニュースキャスター』のなかで書いていた、「23」初回の自身の失言をめぐる以下のようなエピソードだった。
筑紫は番組中、アメリカの麻薬問題に言及した際、うっかり残酷な殺し合いの場という意味合いで「屠殺場」という言葉を使い、食肉処理業者から抗議を受けた。これに対し彼は《私が採れる方法は二つあると思う。ひとつはひたすら謝って嵐が過ぎるのを待つ。もうひとつはなぜ私が誤ったかをめぐって徹底的に議論することだ》と言って、後者を選ぶ。それから約1年、品川の東京食肉市場に通っては相手と議論を交わしたという。彼は番組の外側に出ることで、自分の発した言葉に責任をとったといえる。どう時代が変わろうとも、これは重要なことではないだろうか。(近藤正高)