わかり合えない人間同士が、共に生きていくために――ヤマシタトモコが『違国日記』で表現しようとするもの
(C)ヤマシタトモコ/祥伝社FEEL COMICS

漫画家のヤマシタトモコが『FEEL YOUNG』(祥伝社)で連載中の『違国日記』の第5巻が、12月7日に発売される。各賞やメディアで話題を呼び、漫画好きたちを唸らせている同作の主人公は、35歳の少女小説家・高代槙生(こうだい・まきお)と、彼女の姪で両親を亡くした15歳の田汲朝(たくみ・あさ)。
人見知りの槙生が身寄りのない朝を引きとり、すれ違いと歩み寄りを繰り返しながら、たどたどしくも着実に共同生活を送っていく。

小さな幸福から苦い記憶まで、複雑な感情が織り込まれた彼女たちのふたり暮らしを丹念に描くことで、性別や世代を問わず熱い支持を集めている『違国日記』。槙生と朝が「お互いを理解できない」という事実をしみじみと咀嚼しながら、独自の関係性を構築していく姿は、同調や共感を強く要請する世の中のあり方に一石を投じるものとして読むこともできる。作者のヤマシタトモコに、『違国日記』の執筆にあたって考えていることや、魅力的な登場人物たちが生まれた背景について話を聞いた。

取材・文/曹宇鉉(HEW)

「“人と人は、絶対にわかり合えない”という漫画を描きたい」


わかり合えない人間同士が、共に生きていくために――ヤマシタトモコが『違国日記』で表現しようとするもの
(C)ヤマシタトモコ/祥伝社FEEL COMICS

――『違国日記』という作品は、「お互いを理解できない人間同士が、それでも尊重し合う」という困難な主題に真正面から対峙しています。こうした話を描こうと決めた、明確なきっかけがあったのでしょうか?

学生のころに『月刊アフタヌーン』で賞をいただいて、初めて担当になってくれた編集の方に「どんな漫画を描きたいの?」と聞かれたことがあったんです。私は「“人と人は、絶対にわかり合えない”という漫画を描きたいです」と答えたんですが、ずっとその気持ちが根底にある気がします。
人間同士がわかり合えないという前提のもとで、不寛容にならずに共存するのが文明人のあり方なのでは、と。とみに今はそのことを強調すべき時代のムードが存在していて、たまたま自分の描いているものと合致したのかもしれません。

――デビュー当時から一貫しているテーマに臨むうえで、ご自身の中で設定したルールのようなものはありますか?

『違国日記』のストーリーを考えていて悩むのは、「悪者をなるべく作らないように」ということですね。人間の善い部分を描きたいと思っているので、人によって異なる行動の規範を悪だと断じないように気をつけています。もちろん、まったく違う倫理観をどちらも否定しないようにすると、どん詰まりに向かっていくので大変ではあるんですけど(笑)。人物同士を衝突させながらも、どちらの味方にもならないようにするというか……。
感覚的に決めている部分もたくさんあるので、言葉ではなかなか表現しにくいですね。
わかり合えない人間同士が、共に生きていくために――ヤマシタトモコが『違国日記』で表現しようとするもの
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――別のインタビューで、『違国日記』について“読者に優しい話”であることを意識しているとおっしゃっていました。「悪者を作らない」「人間の善良な部分を描く」というのは、作品全体に通じる“優しさ”とも関連しているのでしょうか?

私たちが生きている社会って、わりにしんどいことが起こり続けているじゃないですか。ずっと起こっていることが共有され始めた、ということでもあると思うんですけど。「みんな疲弊しているし、あまりつらい作品は読みたくないだろうな」という思いから、読者のストレスになるものはなるべく控えめにしようとは考えています。

――とはいえ、『違国日記』を読んでいると「うーむ」と食らってしまうことが多々あります(笑)。
ひとつひとつの挿話が、すごく身につまされるというか……。


ありがとうございます、食らっていただいて(笑)。

素直さや善良さは、無神経であることと表裏一体


わかり合えない人間同士が、共に生きていくために――ヤマシタトモコが『違国日記』で表現しようとするもの
(C)ヤマシタトモコ/祥伝社FEEL COMICS

――とりわけ槙生が両親を亡くした朝に語りかける言葉は、ときに残酷かもしれませんが、根源的にとても誠実なものですよね。彼女の考え方や、小説家らしい含蓄のあるセリフの数々に、多くの読者が惹かれているのだなと感じます。

作者としてはそんなに人気の出る主人公だとは思わずに描いているんですけど、読んでいる人は意外と肩入れしているから「あぶねえあぶねえ、もうちょっと嫌わせないと」と気をつけています(笑)。彼女にも正しいとは言えない一面はある、というところはしっかりと描かないといけないので。

槙生を少女小説家に設定したのは、叙情的なモノローグを用いることで、恋愛以外の面でも作品としてロマンチックな雰囲気を演出したかったという理由もあります。
1ページまるごと使ってイメージカットとモノローグだけみたいな、80年代の少女漫画のような表現が好きなんです。

――もうひとりの主人公である朝は、素直ないい子ではあるものの、同年代の子供と比べてもいくらか幼い印象を受けます。

そう、思慮に欠ける(笑)。朝に関しては、ぱっと見の素直さや善良さというものが、無神経であることや他人の痛みに無頓着であることと表裏一体だというところを描きたくて。「自分はそんなに傷ついたことがないから、他人の傷になかなか気づけない」というパーソナリティは最初から決めていました。それでもやっぱり読者は彼女に同情しているので、槙生と同じく「もっと嫌わせないと!」と考えをめぐらせています(笑)。

わかり合えない人間同士が、共に生きていくために――ヤマシタトモコが『違国日記』で表現しようとするもの
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――これ以上なくつらい境遇にある主人公ですが、決して聖女のようには描いていませんよね。

悲しいできごとに遭った人はいい人に違いないとか、逆に本人にも過失があったんだろうとか、ありがちなバイアスをなるべく引っ剥がしたいんです。ひとりの人間として、善良なところも邪悪なところもフラットに描こう、という感じですね。

――朝の母親で故人の実里は、妹の槙生に対してモラハラ的な言動を繰り返していました。しかし彼女自身も“普通”や“女らしさ”のような価値観を強く内面化して、苦しんでいたことが明らかになってきています。

実里についてはまだ模索中な部分もあります。
もちろん単純な悪者にはしたくない。けれど抑圧を内面化することの加害性や、自身や周囲にとって地獄のようなサイクルが生まれていることは無視できない。もしかしたら読者の中にも、無意識のうちにそういった思考に陥っている人がいるかもしれません。そこに手を差し伸べるというと非常に傲慢ですが、「あなたも私たちの一部である」ということはなんらかの形で示されるべきだな、と。
わかり合えない人間同士が、共に生きていくために――ヤマシタトモコが『違国日記』で表現しようとするもの
(C)ヤマシタトモコ/祥伝社FEEL COMICS

――現実の社会でジェンダーギャップなどの不均衡が言語化され、多くの人に共有されるようになってきたことも、そういった表現に影響しているのでしょうか?

私自身、共有し、されることで以前より視野が広がったことは大きいかもしれません。自分が10代や20代のころに感じていた憤りやモヤモヤに名前があることを知って客観的に見られるようになったり、「同じ思いを持っている人がいたんだ」と知って楽になったり、「あのとき私が感じた感情は理不尽なものではなかったんだ」と思えたり……。

もちろん、そういった考え方に触れていない人もたくさんいますよね。いきなり難しい話をしても「そんなのわかんないし!」とシャッターを降ろしてしまうことも多いでしょうし、エンタメとしてやわらかく伝えられたら、と思っています。モヤモヤした気持ちを抱えているのに、「自分でもなにが言いたいのかわからない」という人は決して少なくないはずなので。

ある一面だけが、その人間のすべてではない


わかり合えない人間同士が、共に生きていくために――ヤマシタトモコが『違国日記』で表現しようとするもの
(C)ヤマシタトモコ/祥伝社FEEL COMICS

――個人的に、槙生と醍醐の他愛もないお喋りがすごく好きです。親しい友人だからこそだと思うのですが、醍醐が槙生を呼ぶときの人称が会話のトーンによって変化するのがとても自然で、素晴らしいなぁと。

そういえば人称は統一されてないですね。そんなに意識して描いてないかも。でも、子供時代からの気のおけない友達同士の気安さや心地よさを表現したいとは思っています。そもそもこの作品の起点は「女性同士の連帯、つながりを描きたい」というところなので。

――女性同士のつながりというと、朝の親友のえみりは、社交性の高さや見た目の華やかさとは裏腹に、とても繊細な人物として描かれています。

朝がアイデンティティを確立しないまま放り出されてしまった子供なので、その状況では描きにくい10代の悩みや楽しさを担っているのがえみりです。これからも少しずつ掘り下げていきたい人物ではありますね。初登場時は読者に嫌われていたと思うんですけど、ここ最近のエピソードで評価を覆せたようなので「よしよし」と手応えを感じているところです(笑)。
わかり合えない人間同士が、共に生きていくために――ヤマシタトモコが『違国日記』で表現しようとするもの
(C)ヤマシタトモコ/祥伝社FEEL COMICS

――たしかに、みんな彼女のことを好きにならざるを得ない(笑)。槙生の元恋人である笠町や弁護士の塔野といった男性陣も、それぞれ弱さや苦手な部分を抱えていますよね。

笠町はあまり美形ではないですけど、それこそみんなに好きになってもらわないといけない(笑)。ただポジション的に下手をすると“スパダリ”になってしまうので、カッコよくしすぎないように気をつけています。「苦しみに向き合う機会を得た人にしたい」という思いから、父親との確執や鬱を患った話を入れました。女性漫画の主人公の相手役には珍しいかもしれませんが、自分の弱さを受け入れられる男性を描きたかった。

――4巻のラストを飾る槙生と笠町のエピソードは身もだえました……。槙生が「ムラッ」とする場面で、「ああ、こういうところも描いていいんだ」とすごく腑に落ちたというか。

あの話はエロく描けたようでお気に入りです(笑)。連載初期の打ち合わせで「30代の大人同士がただキスをするだけで、読者をめちゃくちゃドキドキさせるやつが描きたい!」と予告していて、それが上手くハマってくれたというか。担当編集からも読者からも「エロい!」と褒めてもらえたので、「エロかったか~」という達成感がありましたね(笑)。「女性の性欲を全肯定する回にするぞ」という気持ちで描きました。
わかり合えない人間同士が、共に生きていくために――ヤマシタトモコが『違国日記』で表現しようとするもの
(C)ヤマシタトモコ/祥伝社FEEL COMICS

――かたや塔野は美形で弁護士というエリートでもありますが、不器用でおっちょこちょいな面が初登場時から際立っています。

塔野は顔と頭はすごくいいけれど、社会で生きていくのが大変なタイプです。部屋はとっ散らかっているし、冷蔵庫にメガネが入っているし、みたいな。ウソが下手で、行間を読む能力もない。つまり弁護士としてはあまり有能ではないんですけど、しっかりとした倫理観を持っているので、法的な部分で子供を守るために必要な存在として登場させました。ただ私もまだよくわかっていないですね、アイツのことは(笑)。

――あらためてお話を伺うと、どの登場人物も美しいところとダメなところを併せ持っていることがよくわかります。

ごく当たり前に「ある一面だけが、その人間のすべてではない」ということですね。片側から見ただけではわからないことって、世の中にはたくさんありますから。実里のエピソードにしても、熟考した末に「どこかで槙生も彼女を傷つけていたんだろうな」と思ったんです。

“なんでもない暮らし”にたどり着くために大切なもの


わかり合えない人間同士が、共に生きていくために――ヤマシタトモコが『違国日記』で表現しようとするもの
(C)ヤマシタトモコ/祥伝社FEEL COMICS

――『違国日記』の最初のエピソードでは、朝が高校3年生になった“未来”を描いています。物語の冒頭に、あの話を持ってきた意図について教えていただけますか?

あの1話目はいろいろな意味で指針になっています。彼女たちがどういう人物なのか、私自身が知るために描いた部分もありますし、この先描くべきものを思い出すための1話でもある。槙生と朝のなんでもない暮らしぶりや、他者と共存できている状態をあらかじめ提示したからこそ、しんどい展開になっても「いつかここにたどり着くのね」と安心して読んでもらえているのかもしれませんね。

――あらためて第1話を読み返すと、これからどうやって彼女たちがあの関係性に収まるのか、いち読者として想像が膨らみます。

正しくそこにたどり着けるかはわかりませんけど、登場人物たちの抱えているものが解消されていく、あるいはされない過程をできるだけ真摯に描けたらとは思っています。

――朝にとっては両親を亡くしたという残酷な事実があり、槙生も実里に対する悪感情が残っています。これから彼女たちが“なんでもない暮らし”を手にするために大切になるのは理性なのでしょうか? あるいは、素朴な愛や良心のようなものなのでしょうか?

その二択なら、私が信じるのは理性ですかね。まあ、現状の朝はなにも考えていないし言語化もできないアンポンタンですけど(笑)。やっぱり彼女の成長を描く物語でもあるので。

実生活のレベルでも、わかりやすい犯罪から人を傷つける言動に至るまで、なんらかの悪に加担しないためには「自分がいつでも悪事を成しうる」と承知していることや、「自分は善人だ」と絶対に信じないことが大事だと思います。性悪説ではなく、「悪いことを押しとどめる理性が人間にはあるはずだ」までセットで性善説、みたいな。

――『違国日記』に通底する心地よい諦念の秘密が、少しわかったような気がします。最後に、今後の展開を楽しみにしている読者と潜在的な読者に向けて、簡単なメッセージをいただけますか?

難しいな……(笑)。先のことはあまり考えていないんですけど、これからもいろいろなルーツや背景、悩みを持つ人が『違国日記』には出てくるはずなので、ひとりひとりのちょっとした特徴にも注目してもらえたら嬉しいですね。そして読んでくれる方が、この作品のどこかに自分を見つけられたらいいな、と思っています。

書籍情報


わかり合えない人間同士が、共に生きていくために――ヤマシタトモコが『違国日記』で表現しようとするもの

ヤマシタトモコ『違国日記』(FEEL COMICS swing)
コミックス5巻 12月7日(土)発売

「姉がさ、日記を遺してたの。朝宛だった」
朝の亡き母・実里は日記を遺していた。20歳になったら渡す、という娘への手紙のような日記を。槙生にとっては高圧的な姉で、朝にとっては唯一無二の“母親”だった実里。彼女は本当は、どんな人生を生きている女性だったのか? 母の日記を槙生が持っていると知った朝は――。槙生と笠町の“新しい関係”もはじまる――扉が開く第5巻。


▼『違国日記』特設サイト
https://www.shodensha.co.jp/ikokunikki/

Profile
ヤマシタトモコ

1981年5月9日生まれ、東京都出身。2005年に『月刊アフタヌーン』の夏の四季賞を受賞。以降、ボーイズラブから男性向け雑誌まで、媒体やジャンルを問わず幅広い創作活動を行う。2010年、「このマンガがすごい! 2011」のオンナ編で『HER』が1位に、『ドント、クライガール』が2位に選出される。また『違国日記』は「マンガ大賞2019」で4位にランクインしたほか、「第7回ブクログ大賞」のマンガ部門大賞を受賞。その他の代表作に『BUTTER!!!』(全6巻)、『花井沢町公民館便り』(全3巻)、『さんかく窓の外側は夜』(連載中・既刊7巻)など。

関連サイト
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