もし、1964年に流行語大賞があったら?
スポーツ界からはこれまでにも何度となく選手の名言などが新語・流行語大賞に選ばれてきた。当然、オリンピック関係の語も多く、年間大賞だけ見ても、マラソンの有森裕子の「自分で自分をほめたい」(1996年、アトランタ五輪)、競泳の北島康介の「チョー気持ちいい」(2004年、アテネ五輪)、フィギュアスケートの荒川静香の「イナバウアー」(2006年、トリノ冬季五輪)、そして昨年には平昌冬季五輪で銅メダルを獲得した日本女子カーリングチーム(ロコ・ソラーレ)の「そだねー」が選ばれている。
新語・流行語大賞が始まったのは1984年だが、その20年前、1964年にこの賞がすでにあったのなら、きっとその年の東京オリンピック関連の言葉がいくつもあがったに違いない。たとえば、男子体操で日本チームの披露した難度の高い新しい技を呼んだ「ウルトラC」(当時の体操の最高難度がCだったため、それよりさらに難しい技という意味)は、のちに「隠し玉」や「ものすごい」という意味でも使われるようになった。また、もともと人の好ましくない性質という意味で使われることの多かった「根性」という語が、忍耐力や強い精神力の意味で流行し、定着したのも東京オリンピックがきっかけといわれる。
だが、流行語大賞が当時あったとして、大賞には日本中が注目した女子バレーボールに関する言葉が選ばれたのではないか。とりわけ日本チーム(日紡貝塚)の監督の大松博文の口癖で、その著書のタイトルにもなった「おれについてこい」「なせば成る」は流行した。
大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」先週12月1日放送の第45話では、徳井義実演じる大松監督が、1962年の世界選手権での念願の優勝後、いったんは選手らとともに引退を決めながらも、田畑政治(阿部サダヲ)の説得により撤回する。そして選手たちに再び「おれについてこい」と呼びかけ、2年後の東京オリンピックでの勝利をめざして再スタートを切った。
四三の走破地図から聖火リレーコースが固まる
そのころの田畑は、オリンピック担当大臣の川島正次郎(浅野忠信)との争いに敗れ、大会組織委員会の事務総長を志半ばで退いていた。全力を注いでいたオリンピックをとりあげられ、落ち込む田畑の自宅へ、ある晩、組織委員会の岩田幸彰(松坂桃李)・松澤一鶴(皆川猿時)・大島鎌吉(平原テツ)・森西栄一(角田晃広)が訪ねてくる。久々に仲間を前にしても、「『俺が、俺が』で諸君には迷惑かけたね。あとは頼んだよ」とどうにも弱気な田畑に、岩田も、政府主導の組織委員会には乗れないから辞めると言い出した。それを聞いて田畑はあわてて引き止める。
田畑は4人を前に、「やっと時間ができた。家族水入らずで旅行にでも行くよ」ともしみじみ話していた。しかし、妻の菊枝(麻生久美子)と次女のあつ子(吉川愛)は、彼らが家を出たところを呼び止めると、「時々、来て話し相手になってほしい」「毎週でも毎晩でも家を開けますから」と頼みこむ。もちろん彼らはその話に乗り、「裏組織委員会だ」と盛り上がる。
裏組織委員会はその後、田畑宅で夜な夜な開かれ、先の面々のほか、デザイナーの亀倉雄策(前野健太)が新たにつくられたポスターや招待状を持って現れるなど、にぎやかに催された。他方、田畑とやはり盟友だったはずの「東龍さん」こと都知事の東龍太郎(松重豊)は、オリンピックに向けてインフラ整備がなかなか追いつかないため批判を浴びていた。ある晩、裏組織委員会でにぎわう田畑宅を、東がじっと眺めているのをあつ子が見つけ、「ご一緒にどうですか?」と声をかける。
表の組織委員会ではそのころ、岩田たちがオリンピックのコンパニオンの選考会を行なっていたが、そこへ場違いな年老いた男がやって来る。聖火最終走者の選考会と勘違いしたというその老人の話を聞いて、田畑はそれが金栗四三(中村勘九郎)だと気づく。岩田は四三から1枚の大きな紙を渡されていた。田畑が開いて見れば、それは日本地図で、若き日の四三が走破した道が赤い足袋のマークで列島の隅から隅まで印されていた。ちょうど聖火リレーの沖縄から東京を一直線にめざすコースが物足りないと話し合っていた折で、田畑はとっさにひらめく。聖火が全都道府県をくまなくまわるようコースをつくればいいじゃんねー! これに対し、オリンピックが始まるまでに全国をまわれるのかという疑問も上がるが、そばで話を聞いていたあつ子が、火を分ければいいのではないかと口にする。ここから、聖火は沖縄から各地に分散し、東京に向けて4つのコースでリレーし、皇居前で再び一つに集めて開会式当日、国立競技場をめざすというプランができあがる。組織委員会でそれをぶちあげた岩田は、最後に思わず「じゃんねー」と田畑の口癖が移っていた。
聖火リレーのコースが四三の走破地図にヒントを得てつくられたというのはおそらく創作だが、これまで描かれてきたことが終盤へ来て、ついにやって来るオリンピックへと集約されていくところに感動を覚える。
あの一言が口に出せない大松に、田畑は、選手はどうする?
さて、第45話でとくに印象深く描かれていたのが、先の大松監督へ田畑が説得を行なったくだりである。1度目は田畑ひとりで乗り込んで失敗するが、2度目は菊枝とあつ子をともなって再び大松と面会した。大松もまた妻と幼い娘を連れて久々に外出していたところだった。そこで彼は、引退表明後、自分のもとへ5000通の手紙が届いたと打ち明ける(田畑にボールを次々と投げ込みながら)。そのうち6割はこのまま選手たちにバレーを続けさせるならおまえは人でなしだという内容で、あとの2割はオリンピックまで続けなければ国民を裏切る非国民だという内容だったという。人でなしか非国民か、両極端な世論のあいだで彼の心は揺れ動いていた。
そこへ選手たちも仕事着姿で現れる。大松は叫ぶ。「東洋の魔女」と言われる彼女たちだが、6人そろわないと魔力を発揮しないのだと。しかしこのままいけば婚期を逃してしまう。「そやけどな、俺がやるって言うたら、あいつらはついていくって言いよんねん! あと2年、大事な青春のすべてを全部犠牲にして、ついてきよんねん! だから俺には言えへん! ついてくるってわかってるから、俺は言えん!」と大松は選手たちへの思いをぶつけたうえ、さらに「家族にも言えん! 妻や娘、人間の生活させてないやろ、大松と! こんなんがあと2年も続くんやったら、家庭は崩壊や」とぶちまけた。
そこへ、菊枝が口を挟む。
河西が口火を切って、ほかの選手も「そうや。うちらにもあるわ、青春。きっとありすぎるくらいあるわ!」「恋愛や男性やドライブなんかよりずーっと青春や!」「そやな。一通りやってみたけど、どれもピンと来へんし」「2年も待てへん男より、2年ついてこいって言う男のほうがええんちゃうん?」と涙ながらに訴えた。そのうえで「言ってくださいよ、先生」と彼女たちに言われたら、大松もあのセリフを言うほかはない。だが、大松はなかなか口に出せない。
「おれに……おれについてこい!」
この一言を号砲として、選手たちは仕事着を脱ぐとユニフォーム姿となり、練習を再開した。その様子を見ながら、田畑は感慨深げに語る。「変わったのかな……変わったよねー。人見絹枝や前畑秀子の時代からさ」「少なくとも『国を背負って』とか、そういうんじゃないじゃんねー。自分のためにやってるじゃんねー」。これにあつ子が「だからかっこいいんだよ」と返す。
このとき、かつて四三に憧れて陸上選手を夢見たシマに始まり、人見、前畑と、女子スポーツの先駆者たちの回想が流れた。彼女たちの奮闘があってこそ、河西たちもバレーボールに青春を捧げられるということだろう。ここでもまたいままでドラマで描かれてきたことからの連続性が強調される。そういえば、河西を演じる安藤サクラは「いだてん」にも出てきた元首相・犬養毅のひ孫にあたる。そんなところにも連綿と続く歴史を感じずにはいられない。
ちなみにあつ子が「かっこいい」と口にしていたが、スタイルや容姿だけでなく、人の行動などに対してもこの言葉が使われるようになったのは、ちょうど東京オリンピック前ぐらいからだった。物の本によれば、この言葉は、当時の人気コメディグループであるハナ肇とクレージーキャッツがテレビで盛んに使ったことから、価値基準を表現するのに便利な言葉として広まったという(『昭和 二万日の全記録 第12巻 安保と高度成長』講談社)。なお、ハナ肇は大松博文に似ていると言われ、大松の著書を映画化した「おれについてこい!」では彼に扮した。
消えた五りんが紅白に出演!?
大松と河西ら選手がオリンピックに向けて再始動したころには、オリンピックまであと1年というところまで来ていた。参加国の調整など組織委員会は裏も表も大忙し。開会式で披露するため、自衛隊のブルーインパルスのパイロットたちが表の組織委員会に呼ばれる。そこでパイロットのひとり、松下治英(駿河太郎)が、青空に五輪を描いてみせるとぶち上げ、岩田たちを驚かせた。
他方、オリンピックの宣伝部長に任じられたものの、田畑の事務総長退任にともないお役御免となったのが、新米落語家の古今亭五りん(神木隆之介)である。前回、師匠の志ん生(ビートたけし)との二人会をすっぽかして、行方をくらませた五りんは、歌手の三波春夫(浜野謙太)に接近、三波がもともと浪曲師で戦時中には満州にいたことから「親父が満州で先生の浪曲を聴いていた」と伝え、まんまと相手の懐に飛び込んだ。
いよいよ東京オリンピック開催まで1年を切った1963年の大晦日、紅白歌合戦のフィナーレでは、出場歌手全員が恒例の「蛍の光」ではなく「東京五輪音頭」を合唱した。志ん生一家がそれを見ていると、長女の美津子(小泉今日子)が、歌手たちと一緒に五りんが歌っているのを見つける。これは一体、どういうことなのか。そもそもなぜ彼は志ん生のもとを去ったのか……。最終回まできょう放送の第45話を含めて残り2回というところへ来て、またもや謎が生まれた。
ちなみに1963年の紅白歌合戦の平均世帯視聴率は81.4%を記録している。これは紅白だけでなく日本のテレビ放送史上最高の視聴率で、いまなお破られていない。これに次ぐのが、東京オリンピックの女子バレーボール決勝(日本・ソ連戦)の中継の視聴率で、66.8%に達した。これにあやかって「いだてん」もせめて最後の最後に視聴率が伸びるといいのだけれども……。参考までに、今年のラグビーワールドカップでは、予選の日本・スコットランド戦(10月13日)が39.2%、決勝トーナメントの日本・南アフリカ戦が41.6%(10月20日、「いだてん」の裏で放送されていた)と、東京オリンピックの時代ほどではないものの、スポーツ中継の変わらぬ強さをうかがわせる。
史実でも田畑の情に負けた大松監督
今回描かれた、大松監督が世界選手権後に辞意を表したとき、田畑政治が取りやめさせようと大阪の日紡貝塚まで赴いたというのは史実である。大松の著書によれば、それは1963年12月のある日だったという(『おれについてこい なせば成る』講談社)。大松はこのときの田畑の肩書きを事務総長と書いているが、実際にはすでに退任して2ヵ月が経っていた。田畑は、大松が引退すると聞くとあわてふためき、さっそく飛行機で大阪に飛んで日紡の社長と会談し、当人も呼んで翻意を要請する。しかし彼は頑として聞かなかった。理由はほぼドラマで描かれたとおりである。世界選手権で宿敵のソ連を破るまでに心身ともに使い果たしたうえに、選手も年齢の関係でこれ以上続けさせることは自分としてはできない。といってあと2年でこれに代わる選手の養成は不可能で、オリンピックで勝てるとすればいまの選手のみである……と、大松は説明したという。これに対し、田畑はさらに女子バレーをオリンピック種目に加えた経緯を話して説得し、最後にようやく《だれにいわれても、やめようと思っていたが、あなたが、それ程頼むのならやろう》という言葉を引き出した(田畑政治「感無量 東京大会」、「朝日新聞」1964年10月25日付朝刊)。再び大松の著書によると、田畑はこのとき、《ほしい選手がよその会社にいるなら、行って頼んでもらってくる、転勤させてももらうから、オリンピックはニチボーでやってくれ》とまで言ったという(『おれについてこい なせば成る』)。大松は田畑の誠意と真情に折れたのだった。田畑お得意の直談判がこのときも奏功したのである。
もっとも、大松は自分の引退を撤回したあと、選手たちにもついてきてもらうよう説得する必要があった。田畑に続き、体協やバレーボール協会、またファンからも監督続行を要望する声があいついだ。大松は自分が「オリンピックまでやることになった」と言えば、選手たちは必ずついてくると確信していたが、選手にも選手の家庭にもこれ以上の犠牲を払わせてはならないと自分に言い聞かせ、何も言わないでいた。ようやく切り出したのは1963年の正月、それまで選手たちには元日だけ休みを与えていたのが、この年はゆっくり休みをとり、家族とよく相談してくるよう伝えた。そして《もしおまえらみんなが“やる”というなら、わしもやる。“ここでやめよう”というのだったら、わしもやめる。やるかやらないか、あんたたちで決めてくれ》と、結論を選手にゆだねたのだった(『おれについてこい なせば成る』)。
果たして正月4日の夜、主将の河西昌枝以下、選手たちがそろって堺の大松宅を来訪すると、《わたしたちは、考えるだけ考え、そして、みんなで相談しました。やります》と決意を表明した(『おれについてこい なせば成る』)。選手のなかには、引退するつもりでいたのが、正月に実家に来た婚約者から「もう少しやれよ」と言われて翻意した者もいた(河西昌枝・宮本恵美子・谷田絹子・半田百合子・松村好子・磯辺サタ・鈴木恵美子『思い出の回転レシーブ 大松先生ありがとう』講談社)。そうやってそれぞれ考えに考えたうえで出した結論だった。河西はのちに自身の選手生活を振り返って、次のように書いている。これはそのまま劇中のセリフにも反映されていた。
《先生がやれといったからやったのだったら、わたしたちは、青春を犠牲にしたということばがあてはまるかもしれない。しかし、わたしたちは、自分で選んだ道であった。犠牲にしたというのは、まちがいである。(中略)
すこしいいすぎかもしれないが、世間には、自分のやっていること、やってきたことに満足を感じていることはあまりないのではないか。わたしは、(中略)とにかく、いままでやってきたことには、満足にいちばん近い気持ちをいだいている。
もし、わたしのバレー生活十三年間が、ただ自分を犠牲にしただけであるならば、この満足感はこないにちがいない》(『思い出の回転レシーブ』)
黒澤明は記録映画をどう撮ろうとしていたのか
女子バレー以外にも、第45話では毎回のごとく史実にもとづくエピソードがふんだんに盛り込まれていた。
オリンピックの記録映画を監督する予定だった黒澤明(ドラマでは怒髪天の増子直純が演じていた)が、田畑の辞任にともない退いたのも事実である。岩田幸彰によれば、田畑の辞任が発表されるや、黒澤から《私は田畑さんのいない東京オリンピックには情熱を失いました。監督を辞退させて下さい》との申し出が寄せられたという(ベースボール・マガジン社編・発行『人間 田畑政治』)。
完全主義者といわれた黒澤だけに、記録映画にも並々ならぬこだわりを見せた。選手たちの一挙手一投足のひとつたりとも見逃すまいと、競技場のあらゆるところにカメラを配置し、そのために国内だけでなく各国から名うてのカメラマンを呼ぶつもりでいたらしい。さらには男子100メートルで決勝ラインに突入してくる選手を前から撮りたいので、トラックのゴール手前に穴を掘りたいと提案して田畑を驚かせたという。
黒澤はどんどんふくらんでいく構想を、田畑との会談で酒を酌み交わしながら語った。田畑もそれに胸を躍らせ、実現のため予算の獲得に奔走する。国際的にも期待は高かっただけに、黒澤があっさり手を引いたのは大きなマイナスだと、田畑はしみじみ語っていたとか(杢代哲雄『評伝 田畑政治 オリンピックに生涯をささげた男』国書刊行会)。
記録映画の監督には結局、市川崑が就いた。きょう放送の第46話では、市川に三谷幸喜が扮する。三谷といえば、市川の生涯最後の作品となった『犬神家の一族』(2006年版)に出演して、当人を知っているだけに、どんなふうに演じるのか気になるところだ。
紆余曲折を得て生まれた新たなオリンピックポスター
第44話ではまた、前野健太演じる亀倉雄策が東京オリンピックの新たなポスターとして、バタフライで力泳する競泳選手を正面から撮った写真を用いたものを、組織委員会よりも先に田畑に見せるシーンがあった(オープニングタイトルで田畑が川を泳ぐカットがあるが、元ネタはこのポスターではないか)。
東京オリンピックでは3号となるこのポスターの写真は、プールのコース上に鉄製の橋を渡してカメラを据え、その下を日本大学の3選手とアメリカ人の1選手に泳いでもらって撮影したものだ(2号ポスターに続き早崎治がカメラマン、村越襄がフォトディレクターを務めた)。撮影後、ランナーたちのスタートダッシュの写真を用いた第2号ポスターのときと同様、アートディレクターの亀倉雄策が1枚のネガを選ぶ。それはヨージックというアメリカ人選手(1956年のメルボルン五輪の金メダリスト)のバタフライのフォームだった。しかしこれに組織委員会の一部から横槍が入る。「水上日本であるのに、外人を使うとは何事か」というのだ。結局、選んだネガは没となり、その後、東京オリンピックに出場予定の日本のバタフライ選手を呼んで、あらためて撮影が行なわれ、ポスターに採用されるにいたる。
2号ポスターに続きフォトディレクターを務めた村越襄は、撮影を振り返って、《その雄姿は決して前回に劣るものではなかったが、私たちには何かふっきれないものがあった》としつつも、《ともあれ、私たちにとって、「力いっぱいやった」という充実感が強く残ったことは確かである》と記した(『デザイン』1963年7月号)。
じつは2号ポスター制作時にも、ある政党の代議士が「なぜ黒人が入っている」とクレームをつけ、危うく没になりかけたことがあった。亀倉は後年にいたるまでそのことを怒っていたという(日経デザイン編『てんとう虫は舞いおりた 昭和のデザイン〈エポック編〉』日経BP社)。政治家のクレームといえば、市川崑が完成した映画『東京オリンピック』を観た自民党の大物議員・河野一郎が、「こんなひどい記録映画はない。つくり直せ」とクレームをつけたことから、「芸術か記録か」をめぐり大論争が巻き起こったことはよく知られる。
このように東京オリンピックでは、田畑政治だけでなく多くの人たちが政治家などお偉方に翻弄されながらも、それぞれの仕事を成し遂げていったのである。(近藤正高)
※「いだてん」第45回「火の鳥」
作:宮藤官九郎
音楽:大友良英
題字:横尾忠則
噺・古今亭志ん生:ビートたけし
タイトルバック画:山口晃
タイトルバック製作:上田大樹
制作統括:訓覇圭、清水拓哉
演出:一木正恵
※放送は毎週日曜、総合テレビでは午後8時、BSプレミアムでは午後6時、BS4Kでは午前9時から。各話は総合テレビでの放送後、午後9時よりNHKオンデマンドで配信中(ただし現在、一部の回は配信停止中)