《ヘルシンキ大会の翌年、初めてオリンピック招致を提唱し、私の書きおろした筋書とおぜん立てで、ローマ大会の前年ミュンヘンのIOC総会で招致を実現した。
 当時は今と違いまだオリンピックに対する協力ムードはきわめて薄く、決ったことだからやらざるを得ないが、少しでも安くあげようという空気が支配的で随分苦しんだ。
 それでも、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながらも、一番、難関であったワシントンハイツを移転して、その跡に選手村と屋内水泳場を作ることに成功して、ようやく東京大会開催の施設と運営の総路線が引き終ったところで私は退陣せざるをえなくなった。
 私としては、ほとんど一人の知識、経験で、従来の慣例に創意工夫を加えて引いた路線の上に、素人ばかりの組織委員会事務局の手で、果して、立派に車を走らせ得るかということについて、非常に不安を感じた。
 しかし、結果は立派にやってくれた。(後略)》

これは、1964年の東京オリンピックが閉幕した翌日、田畑政治が古巣の朝日新聞紙面に寄せた文章の一部である(「朝日新聞」1964年10月25日付朝刊)。私は何年か前、東京オリンピックについて調べていたときにこの文章を見つけたのだが、「私の書きおろした筋書とおぜん立てで……招致を実現」「私としては、ほとんど一人の知識、経験で、従来の慣例に創意工夫を加えて引いた路線」と、すべては自分の手柄だと言わんばかりの書きっぷりに、ちょっと眉につばをつけたものである。