浅草での修業時代を歌い上げる
「浅草キッド」は、たけしが青年時代に浅草で芸人修業を続けるなか、コンビを組んでいつか売れる日を夢見ながら、やがてその夢を捨ててしまう相方を歌ったものだ。たけしとは同世代で、浅草のストリップ劇場のフランス座で切磋琢磨した仲であるライターの井上雅義は、1985年の冬、映画「夜叉」の撮影中のたけしをロケ地の若狭まで取材に訪れた際、デモテープでこの歌を聴かされた。弟子のグレート義太夫のアコースティックギターをバックに、たけしがかすれた声で歌うのを聴くや、井上は打ちのめされたようになったという。彼がたけしと1970年代の浅草で送った修業時代の風景や、二人の師匠である喜劇役者・深見千三郎や当時の仲間のことなどが、フラッシュバックするようにありありと浮かんできたからだ。
たけしは修業するなかで知り合った兼子二郎(のちのビートきよし)に誘われてコンビを組み、ツービートを名乗って毒舌漫才でブレイクする。一方、井上雅義は、作家を志してかつて井上ひさしが文芸部員として所属したフランス座に飛びこみ、やがてライターとして独立すると、たけしをいち早く取材して雑誌でとりあげたり、のちには彼の週刊誌での連載コラムやエッセイの構成も手がけるようになった。
歌詞に出てくる「お前」とは誰か?
さて、「浅草キッド」でとりわけ気になるのは、曲中で「お前」と歌われる相方とは誰なのか、ということだ。勘違いしている人もいるかもしれないが、それはビートきよしでも、かといって井上雅義でもない。そもそも彼らは夢を捨てなかったからこそ、たけしとともに世に出ることができたことは、少し考えればわかるだろう。
「お前」の正体をあっさり明かしてしまうと、たけしよりやや遅れてフランス座に入り、一時期、彼と一緒に組んでコントを演じていた青年である。たけし自ら修業時代を描いた小説『浅草キッド』(太田出版/新潮文庫)ではマーキーこと牧口正樹という名で、また、そのころのたけしを井上雅義が自身の視点からつづった『幸せだったかな ビートたけし伝』(白夜書房)ではHのイニシャルでそれぞれ登場する。名前は違うが、やけに調子のいい男だったとの描写は一致する。
実際、たけしはフランス座でストリップの幕間に演じるコントの古臭さにだんだん違和感を覚え、いずれ外に出ようとひそかに考えるようになっていた。小説『浅草キッド』では、そこへ現れたマーキーに、《もっとセンスのあるカッコいいものをやろうぜ》と誘ってコンビを組み、休憩時間をみてはこっそり稽古に励んだとある。しかし、やがてマーキーは酒が原因で「頭が病気」になってしまい、静養を余儀なくされ、もくろみは頓挫してしまった。それでもたけしは、その後ツービートとして漫才を始めてからも、マーキーとやり直すことを考えた。
《しかしマーキーの頭は依然として回復していなかった。反対にますます病状が悪化しているようにもおもえた。まったくなんてやつなんだろう。やるときには二人で一緒にデビューしようぜって約束してたのに、大事な時期に酒なんかで頭をこわすなんて。そんなにまであいつの心がやられてたってなんだろうか。マーキーとのコンビの夢はついにかなわなかった》(『浅草キッド』)
この文章以降、作中からもマーキーはフェードアウトしてしまう。
また、『浅草キッド』では、たけしは兼子二郎からの再三の誘いを断ってマーキーとコントの完成をめざしたとあるのに対し、『ビートたけし伝』によれば、じつは二郎とは、先述のリズムフレンド結成より前にコンビを組み、一旦はフランス座を飛び出していたという。二郎とたけしはまず「松鶴家二郎・次郎」のコンビ名で名古屋の大須演芸場で漫才を演じ、さらに一時解散を挟んで、今度は「空たかし・きよし」を名乗り、念願だった浅草の松竹演芸場などに出演した。だが、結局うまくいかず、兼子と別れてフランス座に出戻ったという。再び兼子と組んでのツービートの結成は、リズムフレンドが幻のコンビに終わってからだった。
たけしは『浅草キッド』で、マーキーが感覚的に自分と似ているところがあったと書いている。加えて『ビートたけし伝』にあるとおり、両者とも無類のブラックネタ好きという点も共通したとなれば、たとえ本格的にコンビを組んでも、やはり長続きはしなかったのではないだろうか。
「浅草キッド」さらにいくつもの「お前」
私には、「浅草キッド」でたけしが「お前」と呼びかけている相手は、もう一人のたけし自身のような気もしてならない。
あるいは、ここで歌われる「お前」とは、師匠・深見千三郎のことでもあるのではないか。じつは深見は、フランス座に出演するのとあわせ、興行会社からその経営を任されていたが、結局うまくいかず、経営から手を引くとともに芸人としての人生にも終止符を打っていた。以後、彼は知り合いの経営する化粧品会社に勤務するようになる。それが1981年のこと。ちょうどたけしが個人でも『オレたちひょうきん族』などで人気を集め出したころだ。
たけしはツービートを結成し、フランス座を飛び出したとき、深見から出入り禁止の処分を受けた。しかしその後、マンザイブームで彼がテレビに出始めると、一転して認めてくれるようになったという。それからは年に何回かは師弟で浅草を飲み歩いていたが、1983年2月、突如として深見は自宅アパートの火災で亡くなってしまう。その前月、会社の休みを利用して久々にフランス座の舞台に立った矢先のできごとであった。『ひょうきん族』の収録中、フジテレビの控室で師匠の訃報を聞いたたけしは、一瞬絶句したかと思うと、壁に向かって、師匠から入門時より教え込まれたタップを踏み始めたという(伊藤精介『浅草最終出口 浅草芸人・深見千三郎伝』晶文社)。
たけしは、骨の髄まで芸人であった深見が、弟子の自分のブレイクを見届けるかのように、芸能人生の幕を引いたことに寂しさも感じていたのではないか。ここでもまた「夢をすてたと……」である。今夜の紅白では、たけしの「浅草キッド」を聴きながら、その芸人としての人生とともに、かつて彼と一緒に夢を見た人たちのことにも思いをはせたい。(近藤正高)