アイドルは時代の鏡、その時代にもっとも愛されたものが頂点に立ち、頂点に立った者もまた、時代の大きなうねりに翻弄されながら物語を紡いでいく。結成から20年を超えた
に関するニュース">モーニング娘。の歴史を日本の歴史と重ね合わせながら振り返る。『月刊エンタメ』の人気連載を出張公開。12回目は2008年のお話。

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「歴史が変わる」という言葉における、その実際の動きは、2つのパターンに分けられるのだと思う。

一つは「Change」という明快なキャッチコピーで国民の心を束ね、2008年にアフリカ系として初めてアメリカ大統領選挙を勝ち抜いた、バラク・オバマの例。そしてもう一つは後に自分たちが伝説として呼ばれることを知らず、ただひたすらに1日1日を過ごしていた、2008年のモーニング娘。の例である。

後にこの時期が“伝説のプラチナ期”として称賛されるようになったとき、話題を向けられた田中れいなが「平坦な時代です」(※1)と返したのは自嘲でも何でもなく、おそらく本心だったはずだ。

いま時系列で振り返っても2008年とは、モーニング娘。にとってグループ結成後初めてメンバーの変動が一切ないまま過ぎていった、もっとも平坦な記憶の1ページである。さらにそれらの印象は立て続けに起きた『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)への出演途絶、そして先輩たちから受け継いできた冠番組『ハロー!モーニング。
』(テレビ東京系)シリーズの放送終了によって、より強調されてもいる。

「加入当初の忙しさはなくなって、少し自分の時間が持てたことに喜んでいたくらい」(田中れいな)(※1)

ただこの平坦で、そして後に歴史的名曲とされた『リゾナントブルー』のリリースを持ってしてもAKB48やPerfumeの追い上げに勝てなかった2008年は、当時のモーニング娘。たちにとってどんな意味をもたらしていたのか。それを探るために資料を振り返っていると、ふとこんな文章が目に入った。それは2008年当時のモーニング娘。主要メンバー・亀井絵里の言葉である。

「モーニング娘の仕事のなかでも特に思い出深いのは、やっぱりコンサートです。自分の自信にもつながっていったし、勉強にもなったし、すべてはコンサートだったっていうくらい、自分にとっては大きな場でした」(※2)

※1「モーニング娘。 20周年記念オフィシャルブック」(ワニブックス)
※2「亀井絵里写真集『 THANKS 』」(ワニブックス)

2008年のモーニング娘。にとって、今考えるとコンサートというのは、まさに「すべて」を占める存在だったのではないかと思う。それはメディア露出の激減がありながら2008年のコンサートツアーは春が12都市35公演、秋が14都市35公演と、『LOVEマシーン』リリース直後の2000年春ツアーとほぼ同じ公演数を保っていたからである。

これらのコンサートを支えていたのは時代の潮流が変わってもなお残っていた、一定数のファンだった。
そしてこのファンの存在こそが、興行としてのコンサートツアーと、それに付随する新曲リリースという形で、メディア露出が減ったモーニング娘。を引き続き芸能界に引き留める大きな役目を果たし続けてくれていたのだ。

また先の亀井の言葉にやはりどこかリンクするように、当時リーダーだった高橋愛もこの2008年の印象的な思い出を、コンサートという単語に絡めて振り返っていたことがある。それはこの年の5~6月に初めて実現した、グループ初となるアジア3カ国ツアーでの記憶だ。

「もう反応がすごかったんです。(中略)『キャー!!』って叫んで泣いているんですよ。それは韓国でも上海でも台湾でも同じだった」(※3)

やはり当時サブリーダーとして活動していた新垣里沙によれば、看板の高い知名度と置かれた現状が遠くかけ離れていったこの時期、メンバーはマネージャーにさえ「昔はすごかった」という理不尽な理由で、叱責をうけることが少なからずあったという。(※4)

しかし全盛期からのファンが根気強く残ってくれていた日本はもちろん、海外においてもこの2008年、先輩たちの記憶ではなく今のモーニング娘。に向けられた声援が、コンサート空間では確かに届けられていたのである。

この一連の流れの先にあったものを、後に新垣が表現した言葉でそのまま説明すると「私たちの主戦場がライブのステージに変わったんです」(※5)という一文になるのだが、あえてもう少し掘り下げたいのは、後年に付け足された評価ではなく、いざ「当時の彼女たち」には一体どんな手応えが残されていたのだろうか、ということだ。

ここでもう一度、亀井絵里の言葉を引用したい。それは後に芸能界引退の道を選ぶため、芸能人としてはついにプラチナ期への称賛を聞くことがなかった、一人のモーニング娘。
の素直な記憶の言葉である。

「テレビでシングル曲を歌わせてもらうときは、たいがい1ハーフか1コーラスなので、(中略)どんなにダンスで頑張っても映らなかったりすることもあるじゃないですか。でも、コンサートは平等で、ステージ上で目立ったメンバーや、ファンの人たちが追いたいメンバーをちゃんと見てくれる。それが向上心につながったんです」(※2)

スキルが上がった、路線が変わった。この1年の歩みをそんな便利な表現に押し込め、語ってしまうのはきっと簡単だ。しかし実際にはモーニング娘。の2008年は努力がすぐに結果へと結びついたわけではなかった。

※3「Top Yell+ ハロプロ総集編 Hello!Project 2012」(竹書房)
※4「新垣里沙(後編) 黄金期と比較された苦しい時期に生まれた決意」(朝日新聞デジタル)
※5「新垣里沙(前編) 黄金期と比較された苦しい時期に生まれた決意」(朝日新聞デジタル)

現にこの年の終わりに、モーニング娘。はNHK紅白歌合戦への出場を逃している。2008年のモーニング娘。は事実として、ついに劣勢を跳ね返すほどの実力は発揮できなかったのである。

ただ、その逆風の中でもモーニング娘。
はファンの暖かな眼差しに支えられ、その中で今後の自分たちにとって一番大事なものを見つけ始めていた。それは世間の評価の変遷とともにいつしか失いかけていた、自分を奮い立たせる「自信」だった。

「(ファンは)自分が任されたことをしっかりやっていれば、皆見てくれるし、ついてきてくれる」(亀井絵里)(※2)

だからこそ彼女たちのこの静かな1年は後で意味を持ち、歴史を大きく変える変革のトリガーとして、その1日1日が機能していくことになったのだ。

歴史はやはり時としてすぐに動きはしない。しかしそこで諦めなかった者だけが次の時代を作り出すチャンスを得る。そのことを、日本のモーニング娘。は明快な言葉の代わりに、自らの成長をもってして、変わる歴史の中へ確実に刻んでいくことになるのである。