アイドルは時代の鏡、その時代にもっとも愛されたものが頂点に立ち、頂点に立った者もまた、時代の大きなうねりに翻弄されながら物語を紡いでいく。結成から20年を超えた
に関するニュース">モーニング娘。の歴史を日本の歴史と重ね合わせながら振り返る。『月刊エンタメ』の人気連載を出張公開。14回目は2010年のお話。
2010年。結果として大災害の前年という位置づけになったこの年を、あなたは今どんな風に記憶しているだろうか。


リーマン・ショックからは少し時が経ち、政権交代の熱狂も落ち着いた日々。市民生活では携帯電話に変わってスマートフォンが、そしてmixiに変わってTwitterが主役となりつつあったが、今、コミュニケーションの主流になりつつあるLINEはまだ存在すらしていなかった、そんな日々の記憶でもある。

一見それは大きな社会変動のない、穏やかな流れの中にあったようにも思える。しかし改めて振り返ってみるとこの2010年には、その後の社会の変化を先取るような歴史の芽が、すでにあちこちで顔を出し始めていた。私が思うその芽とは、2010年の宇多田ヒカルであり、そして、2010年のモーニング娘。亀井絵里の姿であった。


83年生まれの天才アーティストと88年生まれのモーニング娘。には、実は2つの共通点が存在している。1つはどちらも10代の早いうちからプロとして働き始めていたこと。そしてもう1つは2010年8月に、揃って芸能活動の無期限休止を選択していたということである。

まず先に活動休止を発表したのは6期メンバーの亀井絵里。2010年8月8日、恒例のハロー!プロジェクトコンサートに出演していた時のことだった。


「今年の秋ツアーの最終日をもって、モーニング娘。を卒業することを決めました」(亀井絵里)(※1)

亀井がこの時説明した理由は、「ちゃんと自分を大事にしたい」というものだった。自分を大事に、とは陰で長年苦しんでいたゆえの言葉である。後に本人が明かしたところによると、亀井は幼少期からずっとアトピー性皮膚炎を患っていたのだという。ただ子供時代のアトピー性皮膚炎は成長とともに良くなるケースも多いため、亀井も最初はどこか完治の期待を抱きながら、モーニング娘。として元気に活動していたのだろう。


しかし亀井の場合は年齢を重ねてもなお、肌状態が良くなる気配はなかったという。それどころかアイドル活動につきものの汗や精神的プレッシャーも影響し、ファンの知らないところで亀井の病は年々悪化の一途を辿ってしまっていた。

「コンサートは平等に評価してもらえる場所だったから、絶対に頑張りたくて。でもまたそれが皮肉で、誰よりも頑張ったって言えるときこそ、肌や体調に出てしまう」(亀井絵里)(※2)

歌やダンスが好きで、コンサートが何よりも生きがいと話していたアイドル・亀井絵里。しかしもう一方では肌状態に身も心も縛られたままの日常を過ごし、彼女はいつからか「想像していた未来になっていない」(※2)とも、強く感じるようになっていた。

そして逡巡の末に、彼女はこの2010年、自分を支えていた生きがいを自ら手放す決断をする。
それは過去の先輩たちのように仕事の都合やライフイベントをきっかけとするものではなく、個人としての生き方に重点を置いた、モーニング娘。史上初の決断にもなっていた。

そして亀井の発表からわずか1日後の2010年8月9日。今度は宇多田ヒカルが、公式ブログを通じて自らの芸能活動休止をファンに報告する。

「来年から、しばらくの間は派手な『アーティスト活動』を止めて、『人間活動』に専念しようと思います」(宇多田ヒカル)(※3)

宇多田はその真意を、ただ純粋に人として成長していくための時間がほしかったと説明している。才能に恵まれ、若いうちから誰もがうらやむような環境で音楽活動に没頭していた宇多田。
しかしその一方で本人の中には、音楽以外のことを何も吸収できていない事実が、年齢を重ねていく中で次第にジレンマとなって積み重なっていたという。

「(自分の未来が)行きたい方向に行っていない、かといってどこに行きたいかもわからない」(宇多田ヒカル)(※4)

そして彼女もまた、自分自身の人生を守るために、愛する音楽を一旦手放す選択をする。それはかつて同様に一時代を築いた山口百恵安室奈美恵が、結婚や妊娠を活動の分岐点としていたことを思うと、やはり前例のない決断であったといえる。

2人が自ら選んでいた「自分を大事にする生き方」。それは後に社会全体でも同様の選択やその尊重が増えていくことになるのだが、なぜそうなったかといえば、後に災害という出来事があり、人々がSNSを通じて生き方や考えをより積極的に共有するようになっていった末のことである。つまり“震災前”の日本社会は、「自分を大事にする生き方」を常識として受け入れるにはまだ、早い段階でもあったのだ。

ではなぜあの2010年の時点で、宇多田ヒカルと亀井絵里はSNSによる社会変化を待つことなく、「自分を大事にする生き方」をすでにしっかりと創造できていたのだろうか。それは彼女たちがSNSの普及を待たずとも、長年の芸能活動を通じて家族でも友達でもない第三者への深い信頼を、早い時期からその心に強く感じていたからであろう。

「今回のことでも、また私を信じて待っててくれるんだと思うと、安心して『人間活動』に専念できます」(宇多田ヒカル)(※3)

「私がここまで来れたのも、ファンの人たちがいてくれたからで、卒業するっていう勇気を持てたのも、ファンの人がいてくれたからこそ」(亀井絵里)(※2)

そして実際に宇多田ヒカルはその後5年に渡って全ての活動を休止し、亀井絵里にいたっては今もなお、芸能活動を休止したままだ。しかし亀井絵里はきっと、今もどこかで前向きに暮らしている。そう思えるのは2010年末、やはりグループ卒業を決めた8期メンバーのジュンジュンリンリンとともにラストステージに上がった亀井絵里が、最後の挨拶で次の10年に続く歴史の新たな種を、自ら蒔いていったからだった。

「モーニング娘。になれてよかった。メンバーと頑張って来てよかった。ファンの皆さんと出会えてよかった。そして、自分が亀井絵里として生まれてきてよかった。モーニング娘。は永遠の愛の形。いつまでも、いつまでも、私の宝物です」(亀井絵里)(※5)

※1 「Hello! Project 2010 SUMMER ~ファンコラ!~」(2010年8月8日)
※2 「亀井絵里写真集 『THANKS』」(ワニブックス)
※3 Hikaru Utada Official Website
※4 テレビ朝日『MUSIC STATION ウルトラFES 2016』(2016年9月19日)
※5 「モーニング娘。コンサートツアー2010 秋~ライバルサバイバル~ 亀井絵里・ジュンジュン・リンリン卒業スペシャル」(2010年12月15日)