ティモンディ前田裕太の初となる著書「自意識のラストダンス」(左右社)が3月18日に発売される。自意識と幸福の間で悩み苦しみ、人一倍努力してもなお“幸せ”の正体がわからなかったという前田が赤裸々な思いを綴ったエッセイだ。
上梓に際してインタビューを実施し、まずは前田という人間を知るためにここまでの人生を振り返ってもらった。(前後編の前編)

【写真】初となるエッセイ本を発売したティモンディ前田

──前田さんといえば、強豪野球部である済美高校出身で、野球のイメージが強いですが、野球を始めたきっかけを教えて下さい。

いろんなスポーツをやっている中で比較的周囲から褒められたのが野球でした。子供の頃に何かを始める初期衝動って誰かが認めてくれたとか、褒めてくれたというものが多いかなと思うんですけど、僕もその例に漏れずって感じでした。

──その中でも、甲子園に出るような高校に進学するのはなかなかの決意ですよね。

僕の中である程度自信もあったし、小学生の頃から自分の中で「野球ができる」というアイデンティティも確立されていました。そういう意味では中学からプロ野球選手になる道以外を考えていなかったので、自然な選択でしたね。

──全国レベルの高校に入って驚きや戸惑い、逆に意外とやれるといった手応えはありましたか?

プロになる人でも高校時代は控えだったり、人によって芽が出る時期が違うんですよね。最初は確かに身体的なポテンシャルも違うし、びっくりはしました。ただ、僕らが1年生の時に甲子園に出場して先輩たちに連れて行ってもらったんですけど、その時に活躍してプロ野球に行くんだという思いは強くなりました。だから、レベルの高さに絶望するよりは、僕らもそのうち甲子園に出て活躍するんだという思いでしたね。

──ただ、2年生、3年生では甲子園に出られず、プロ行きもかなわないまま、高校野球を終えることになります。


高校野球を引退する時に、ここまで捧げて何もなかったという燃え尽き症候群みたいになったんです。野球にすべてベットしてきて、唯一褒められたものだし、親も勉強しなさいとか言わずに認めてくれていた。でも、唯一頑張ってきたものがなくなって手元には何も残らず、周りの人は勉強して最低限の知識を身につけて高校生活を楽しんでいたんですよね。そこで色がなくなって、大学生活はモノクロトーンみたいな感じでした。僕の場合は、そこで人格形成がばちっと決まっちゃった気がします。

──それから、駒澤大学法学部に進学しますが、大学や学部を選んだ決め手はあったんでしょうか?

僕は野球しかしてこなかったので、MARCHとか早慶とか知らなくて。僕は指定校推薦でどこでも選べたんですけど、書類を送るだけで入学できるのが駒澤大学だったんです。だから、たまたま法学部でした。ラッキーだったのが、大学から一斉に始めるのが法学で、全然ついていけないわということはそこまで多くなかったですね。

──大学で初めて勉強と向き合って法学を学び始めて、そこから法科大学院まで進学して法律家としてやっていこうと前田さんは決心します。なかなかすごいルートですよね。

僕は大学生になって、皆が受験勉強で得た知識がない状態でした。
でもやりたいこともなかったんですよね。大学生らしい遊びの輪に入っても楽しくなくて、自分から交友関係も閉ざしていました。やることもないから講義をまとめたりしていて、教授へ質問に行ったりするようになってから、「面白いじゃん」と。教授が弁護士になるのもいいんじゃないと言ってくれて、僕自身も法律家としてやっていくのもありかなとなっていきましたね。

──大学院まで進学して芸人への道を選んだわけですが、その経緯を教えて下さい。

大学を卒業して大学院に入る時に高岸に誘われた形でした。当時は楽しそうだし、弁護士を目指しながらでもいいかなと思っていて、これで飯食うぞという決心はなかったですね。未来に対して期待も持てずにいたので、芸人なら華やかな世界で楽しめるかもという感覚でOKを出しました。

──高校まで野球、大学以降は法学と、お笑いとの関わりが薄いかなとも感じるのですが、前田さんの近くに元々お笑いはあったのでしょうか?

基本的には野球があったんですけど、中学生まではテレビで流行っている番組を見る感じでした。ちょうどお笑いブームが来ていて『エンタの神様』が全盛期で、コウメ太夫さんとかゴージャスさんを真似したり、人並みには好きでしたね。

──そんな芸人にいざなってみて、最初に感じた苦労は何だったのでしょうか?

当時はお金もないし、仕事もない。大学院では勉強して覚えれば評価されるけど、芸は努力しても正解があるわけではないので、うまくいかないなという難しさはありました。


──その中でもがいていくのは努力できる人だからこそしんどいかなとも思います。

何者かになる努力というか、なんとかこの状況を変えたいと思って走っていましたね。今思うと、オーディションに受かればいいとか、明確な目標や壁があったんですよね。だから、目の前の課題を一個一個クリアしていくということに注力できたのかもしれないです。

──そこから何がきっかけで好転し始めたのでしょうか?

サンドウィッチマンさんに目をかけてもらったのが大きかったです。1~2年は芸人としての収入も1年で数千円だったんですけど、3年目くらいにサンドさんの全国ツアーのお付きとして前説や衣装替えのお手伝いをしたんです。

打ち上げでお二人に「面白いな」と言われて、富澤さんには「前田が頑張れば売れるぞ」と。富澤さんとは、お子さんの家庭教師をしたり交友関係も深くなっていったんですけど、自信になるようなことを言ってくれました。そこから売れるための計画を考えて、2019年7月あたりに『アメト──ク!』と『ゴッドタン』のオーディションに受かって、どっちもポンポンと出させてもらってから、テレビに出られるようになりましたね。

──サンドウィッチマンさんとの出会いが大きかったんですね。

前説やネタのアドバイスをくださったり。富澤さんはこうしたら2人の面白さが伝わるんじゃないかと、ネタを送ってきてくれたりもありましたね。
この人の言葉を信じてみようかなというくらい目をかけてもらいました。

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