【写真】早くも重版3刷りが決定した久保田かずのぶ初の自叙伝『慟哭の冠』【5点】
――まずは久保田さんのキャリアからうかがいたく思います。大阪時代、ABCお笑い新人グランプリやオールザッツ漫才など次々と賞レースを獲得しましたが、当時はどのような思いだったんでしょうか?
久保田 すごく恵まれていましたね。当時のbaseよしもとは笑い飯、千鳥、麒麟、南海キャンディーズがいる黄金時代だったんですけど、最初にレギュラーをもらったのは僕らだったんですよ。だから、これは行けるぞと思っていましたね。
――大阪では10年近く活動することになりました。
久保田 仕事はあっても、テレビギャラ的に大阪では限界があるんですよ。芽を出したいけど、その上に石が乗っていて重すぎる感覚。これ以上大阪でやっていても意味がないなと思いました。
――東京での活動はうまくいったのでしょうか?
久保田 ないないない。
――このままじゃ本当にやばいぞと感じたのはいつ頃だったのでしょうか?
久保田 1年後とかかな。地獄みたいにしんどかった。貯金はなくて金は尽きるし、嫁がガールズバーで働き出す。先輩の付き合いで目黒まで行くけど、田無に住んでいたので0時超えたらもう電車ないんですよ。くっさい漫画喫茶で時間を潰してきつかったですね。
――そんな中でも、2003年から2017年まで出場し続けるM-1グランプリにはとことん向き合っていました。
久保田 それが無理とわかったら、久保田かずのぶとして生きてきた人間、人生そのものを否定されるような気がしていた。自分にできるものは漫才しかなかったんですよね。
――漫才への強い意志があったから、ひとつのものを突き詰め、頂点に立てたんですね。
久保田 今の時代だと、いろんなジャンルをやれますよね。TikTokもYouTubeもSNSもあるし、宝のためにいろんなところを穴掘れる。でも、一個のところをずっと掘り続けた奴のほうが宝は見つかるんじゃないかな。いろんなところ掘ってやめましたじゃなくてね。
――M-1では2017年に悲願の決勝へ進出し、優勝を果たします。結果を出すために、変えていった部分はあったのでしょうか?
久保田 合わせた部分はありますよ。一人の喋りじゃなくて、漫才コントという形を組みました。今までの14年間は、作文でいったらただ文字がつらつらと書かれているだけだった。それを、タイトルを乗せることでわかりやすくするという工夫はしましたね。
――書籍の中でもM-1決勝に関しての記載は熱く、ライバルと見ていた和牛との話が印象的でした。
久保田 あいつらを倒さないと勝てないんでね。ラストイヤーだし、同じ題材で潰しには行きました。
――優勝した後は時の人となり、一気にブレイクしました。
久保田 人から聞いていたそのもので、今考えたら労働時間とかとんでもなかった。全部訴えられます(笑)。そのときに顔面痙攣とかも起こして…。はけ口がなかったですよね。
――売れたら売れたでまた身体的なしんどさがあるんですね。
久保田 やっぱバランスが大事なんですよ。劇場がご飯だったら、テレビはおかず。ちょうどいいバランスじゃないとだめだと思う。当時は両方大盛りで何しているかわからへん状況でした。今まで一番太っていたんちゃうかな。見ていられなかったと思います。
――優勝から約7年が経ちました。紆余曲折がありながらも、ここまで第一線で戦い続けられているのはなぜだとご自身で考えられていますか?
久保田 まず自分が変わらないとダメですよね。そして動かないといけない。動くと景色が変わる。景色が変わるということは環境が変わる。環境が変わると、それに適応しないといけない。
――最近まで、一時的にテレビの活動が減っていましたが、どのような思いだったのでしょうか?
久保田 2カ月くらいテレビの仕事がないのは初めて。今までなら、「やばい、仕事減ってる」という脳みそだった。普通やったらメラメラして「なんかやったろう」となるけど、なんにもしたくなかった(笑)。それが良かったですね。今後は仕事も考えながら、余った時間で何かしていこうと思います。
――考え方が少しずつ変化してきているんですね。
久保田 そうですね、働き方改革です。好きなことをできる時間があれば、ちょっと仕事を減らしてもいいから。今までは、いろいろと必死にやりすぎていたかもしれない。
▽久保田のぶかず
1979年9月29日生まれ、宮崎県出身。

▽『慟哭の冠』(KADOKAWA)
https://www.amazon.co.jp/dp/4041159474/
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