日本サッカーの最高峰、明治安田生命J1リーグで大久保嘉人(セレッソ大阪)が積み上げたゴールは歴代最多の191。史上初の3年連続得点王という偉大な記録を持つ大久保は、時に批判を浴びながらもブレることなくプロ生活を貫き通し、2021シーズン限りでの引退を発表。
強気な表情の裏に隠し続けた傷は、間違いなく蓄積していたようだ。「細い糸が、1本ぎりぎりつながっている状態でやっていた」という発言が、それを物語っていた。

誰よりも強い、勝利への貪欲さ
大久保は、誰よりもこだわりを持ってプロ生活を送ってきた。自分の得点に対してではない。「勝利」に対して。それを最も感じたのは、南アフリカで行われた2010FIFAワールドカップだった。
2008年に急病のため退任したイビチャ・オシム氏のあとを受け、岡田武史監督が率いた日本代表。積極的なプレッシングでのボール奪取を目指したものの、攻守に懸念が噴出してしまう。すると本大会直前、岡田監督は大博打を打つ。4-1-4-1のシステムでキープ力に長けた本田圭佑を1トップの位置に配し、他の10人でしっかりと守る。そこから堅守速攻を狙う形へと、戦術を大きく変更したのである。
それまで得点に絡むことを期待されていた大久保は、左サイドで上下動を繰り返しつつ攻守に関わることとなった。
グループリーグの3試合、決勝トーナメント1回戦の計4試合全てにスタメン出場をし、攻守に貢献したのち全てで途中交代。最も運動量を必要とするポジションでストライカーとしての我を抑え込み、海外で行われたワールドカップで初となるベスト16進出に大きく貢献した。
J1リーグで誰よりも得点を挙げたストライカーながら、勝利を優先しそのために全力を尽くすことができる。それは大久保嘉人の最大の武器だった。

2つのピークに見える、プレースタイルの変化
大久保の長きにわたるプロ生活で、ピークはいつだったのか。おそらく、2つの意見に分かれるだろう。
1つは2004-05シーズンのRCDマジョルカ(スペイン)時代。もう1つは2013~2015シーズンの3年連続得点王を獲得した川崎フロンターレ時代だ。マジョルカでエクトル・クペル監督のもとプレーした頃は突破力に長けたアタッカーで、自らの得点はもちろんサイドを攻略しチャンスを生み出す役割を担っている。
対して風間八宏監督のもとプレーした川崎フロンターレでは、チームのチャンスを作る能力が高かったことで大久保はフィニッシュワークに特化。2016シーズンも含めた4年間のリーグ戦で82得点と、Jリーグの中でも図抜けた数字を残している。
約10年近くの時間といくつものチームを経て2度のピークを迎え、そしてどうやったらチームが勝てるかを考えプレースタイルを変貌させていること。ここに大久保の真の凄さがある。

貪欲さが招いた批判。でも、だからこそ
その反面チームの勝利に誰よりも貪欲な姿勢が、悪い方向に出ることもあった。J1でこれまでに提示されたイエローカードの数は104、レッドカードの数は12と、どちらも現役の選手では最多。
不用意なカードや疑惑のプレー、危険なプレーも少なくなく、ラストシーズンとなった今季も2つのプレーが大きな議論を呼んだ。第7節のサガン鳥栖戦では、大久保と競り合った鳥栖のファン・ソッコが背後で右足を振り上げるしぐさ。これに大久保が倒れて大きく痛がり、ファン・ソッコにはイエローカードが提示された。だが激しい接触はなく、スペイン紙の『マルカ』や『アス』が取り上げるほど疑惑のシーンとなった。
より問題だったのは第31節の大分トリニータ戦。大分の小出悠太と交錯し倒れたのだが、その際に小出の腕をロックしたような状態に。カードは出なかったものの非常に危険で、大きな怪我に繋がってもなんら不思議でない。
こういったものが大きな批判を招き、素晴らしい記録ほどにはサッカーファン全体から愛されたとは言えない。しかしきっと、何が何でも勝利を目指す言動を行ったからこその得点数なのだ。大久保は自分自身にプレッシャーをかけ、それをはねのけることをエネルギーとしていた。どんな時だろうと何歳になろうと、誰よりもがむしゃらに、勝ちを求める。その姿は間違いなく美しいものだ。
大久保嘉人のホーム最終戦の相手は名古屋グランパス。ルヴァンカップ決勝で敗れた相手に、大久保はスタメンに入り後半40分までプレー。逆転勝利に貢献した。試合後に行われた引退セレモニーでは、セレッソ大阪のサポーターほぼ全てがスタンドに残り、盛大な手拍子を送った。
所属するクラブのサポーターに強く愛され、相手チームのサポーターからは批判を浴びる。それは優れたFWのみに与えられた権利である。

大久保嘉人の本当の姿
ピッチを離れると家族を愛す、心優しい4人兄弟の父親だ。2015年には抗ガン剤の副作用で髪が抜けるかもしれない妻の不安を減らすために坊主頭に。今年は大阪で三男と2人暮らしを送りながら慣れない家事をこなし、11月22日に行われた引退会見ではすぐに涙が溢れ、レフェリーへ謝罪の言葉も口にした。
故郷も大切にしており、生まれ育った福岡県、中学・高校時代を過ごした長崎県で「ベトレーセサッカースクール」をプロデュース。すでに後進の育成に関わっている。
これらが、大久保嘉人の本来の姿なのだ。過度なプレッシャーを背負う必要のなくなった彼が、今後どういった面を見せてくれるのか。最も目立つ位置にいた最高のストライカーは引退してもなお、人の目を惹きつけていく。