【私の人生を変えた一曲】
森公美子さん
(ミュージカル歌手/66歳)
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明るいキャラクターでミュージカルを中心に活躍する森公美子さん。幼少からさまざまな音楽に触れて育ったが、音楽の道を目指すと決めたのはジャズ・ボーカリストの大物、サラ・ボーンの迫力ある歌声に魅了されたのがきっかけだった。
私の故郷は仙台で実家は老舗旅館でした。幼少の頃の音楽の記憶というと祖父母がやっていた端唄、小唄、詩吟です。「鞭声粛々 夜河を渡る……」なんて詩吟を聴いて育ちました。
小学校2年の時に好きになったのはグループサウンズ。とくにタイガース、ジュリーのファンでした。日劇ウエスタンカーニバルが全盛の時代にタイガース、カーナビーツ、テンプターズ、スパイダースが仙台にやってきた時、宿泊したのが実家の旅館です。あの時はメンバーを一目見ようというファンが旅館の塀をよじ登って表と裏の塀を壊されて。それくらいすごい人気でした。
それからジャニーズのファンになります。最初はフォーリーブス。次に郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の新御三家。
萩本欽一さんの「スター誕生」も欠かさずに見ていました。決戦大会でレコード会社やプロダクションがスカウトするのを見て、「私ならプラカードをあげないのに」なんて言いながら見てました(笑)。
テレビ番組の「ザ・モンキーズ・ショー」に出ていたモンキーズというバンドにも憧れました。ドラマの中で英語の歌を歌う「パートリッジ・ファミリー」というのもあって、主役のデビッド・キャシディにも恋したり(笑)。当時はみんなそうだったと思うけど、英語の歌は発音を聴き、それをカタカナで書いて覚えた。英語はまだ知らなかったけど、書いたのを見ながら「ヒア・ウィル・カム~」なんて歌うと英語の歌になっていた気がします。
大きな体、迫力ある声でスイングしながら歌う姿
衝撃的だったのは中学に入って。中高一貫校に入ったのですが、中2の冬休み、クリスマス前に両親と兄弟と父の同級生の家族とハワイ旅行に行きました。宿泊していたホテルで、そこでやっていたのがサラ・ボーンのクリスマスディナーショー。
入り口でテーブル番号を聞かれたので、6とか9とか言ったら会場に入れてくれました。そして入った途端に流れたのがサラ・ボーンの「On A Clear Day」。ステージで大きな体の女性がスイングしながら、迫力ある大きな声で歌っていた。私は彼女に圧倒され、まるで金縛りにでもあったようにその場に立ち尽くして。なんて素晴しい歌声なんだろう、私もこんなふうに歌えるようになりたい……。本気で音楽をやろうと思った瞬間です。
私は最後まで居続け夢のような時間を過ごしました。両親には弟が熱を出したことを伝えるのをすっかり忘れて(笑)。
■巨匠バーンスタイン「ウエスト・サイド物語」の話に感激
私は小さい時からピアノを習っていて家にピアノもあった。楽譜の読み方や書き方を教えるソルフェージュを習い、作曲コンクールにも出たりしていたし、母は仙台の人で戦後コロンビア大を出たGHQの人に中高から大学まで英語を教えてもらったそうで、英語はペラペラだった。その母親に「将来は歌手になりたい」と言ったら「もっとアカデミックに本格的な勉強をしなさい」と言われ、アカデミックという言葉をその時初めて知りました。
高校時代には留学も経験。その後の、ニューヨークのジュリアード音楽院に通っている時はABBAがはやっていて、それからカントリー、ジャズ、クラシックまであらゆるジャンルの音楽に魅了されました。
私の人生の一番の出会いは巨匠バーンスタインです。ボストンがあるニューイングランドのコンサルバトーリオ(音楽院)でバーンスタインが最後の授業をすることを知り、友人と3人でニューヨークからボストンまで行きました。
授業でもっとも印象的なのは「ウエスト・サイド物語」の話です。「ウエスト・サイド物語」を作る時に最初に考えた曲は「Somewhere(どこかで)」だったそうです。「ウエスト・サイド物語」は登場人物の2人が決闘で死んでいくけど、敵対するグループのトニーとマリアの2人はその場から逃れ、「どこかで暮らそう」と歌う。バーンスタインはまずその場面を考えたというのです。
クラシックの巨匠、バーンスタインからその話を聞いて、ミュージカルの名作がそうやってできたのかと感激し、すごいと思いました。作曲科や指揮科が座る前列の後方の席に座っていた私はバーンスタインから「どう思うか」と聞かれ、なんて答えていいかわからず「あなたを見に来ている」とかいうので精いっぱい。そして「世界的な指揮者の授業を受けることができるのは私にとって一番の宝物です」と言ったら、あのバーンスタインに「毎回私を見に来なさい」と言われました。
ミラノで挫折、ロンドンで見た「マイ・フェア・レディ」で覚醒
大学は昭和音楽短大に進学。その頃やっていたのはクラシックです。ただ、そのまま安住したら井の中の蛙になると思って、20歳の時にイタリアに行こうと思い立ちました。
先立つものはお金です。母に成人式の着物の予算を聞いたら、「一生に一度だし、友禅の晴れ着にしようかと思っているから、400万円くらい」という。私は畳に頭を擦りつけて「本場のミラノで勉強したいからその400万円をください」とお願いし、飛び立ちました。
ミラノではコンサルバトーリオ(音楽院)に通い、発声と音楽を作っている先生のところとイタリア語の4つを同時に学びました。すごく充実しているなと思っていたある日、小さな劇場でオペラを見る機会があってハッと気付かされます。音楽院の同級生に「クミが初めてオペラを聴いたのは何歳?」と聞かれました。私は「昨日が初めてかな」と答えたら、彼女は「記憶にあるのは3歳。クミはこれから頑張らないとね」と言われて。ショックでしたね。
父はいつも「必死にやってれば結果はすぐに出る、ダメだと思えばそこで落胆するのは時間がもったいない。次、次と新しいことに挑戦する。NEXT NEW! 人生は短い」と言っていた。私は初めて挫折を知りました。その時はバカンスシーズンで、ロンドンの叔母のところに行き、たまたま見たのがミュージカル「マイ・フェア・レディ」。そこで気がつきました。クラシックは歌に集中してしかめっ面で眉間にシワを寄せて歌うけど、ミュージカルはみんなニコニコして明るく笑ってやっている。私が求めていたものはこれかも、楽しそうな方が私には向いていると思いました。
帰国後、ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」「ラ・マンチャの男」で有名な振付師の坂上道之助先生、東宝の名プロデューサーの佐藤勉さんと出会い、森繁久弥先生にもいろんなことを教わることができました。その時、森繁先生には芸名もつけていただき、それが「雷電為子」でした。江戸時代に雷電為右エ門という横綱がいて、それからとった名前でした(笑)。
■今年の大きな目標は11月「バグダッド・カフェ」
話は戻りますが、今、力を入れているのは原点ともいえるサラ・ボーンが歌っていたジャズです。もちろんミュージカルをやりながら。年齢的に声が低くなり、高音が出にくくなるものですが、私はまだまだキープできている。サラ・ボーンは低い声がステキですが、私もサラ・ボーンに負けないくらい出ます。幅広い音域で真っ向勝負。そのためにウオーミングアップの時間は長くとり、トレーニングを怠らないようにしています。
63歳で初めてブルーノート東京でジャズを歌いました。今は各地でジャズのコンサートをやっています。今年の大きな目標は11月にやるミュージカル「バグダッド・カフェ」(11月2~23日、東京・日比谷シアタークリエ)です。楽しみにしてください。
(聞き手=峯田淳)