【増田俊也 口述クロニクル】
写真家・加納典明氏(第31回)
作家・増田俊也氏による新連載スタート。各界レジェンドの生涯を聞きながら一代記を紡ぐ口述クロニクル。
◇ ◇ ◇
増田「杵島隆先生の助手になったのが1962年。昭和37年ですね」
加納「1964年だね、独立したのが。2年やって独立した」
増田「杵島先生のところでプロの技術を学んでからの独立ですね」
加納「そうだね。20歳の時に行って」
増田「中学時代から付き合って初めて抱いた女性、初体験をした彼女ーー後の奥様も連れていってたんですか」
加納「彼女のほうが先に行ってたんだよ。高校出てしばらくは俺は名古屋の小川藤一先生のところにいたでしょう。彼女は横浜に親戚がいてね。そこに移って働いてた。その1年半後くらいに俺も上京した」
増田「上京当初は市工芸(名古屋市立工芸高校)の同級生だった武蔵野美大*の友人のところに一緒に住んだんですよね。ということは典明さんは都内ですか」
※武蔵野美術大学(むさしのびじゅつだいがく):略称ムサビ。東京都小平市に本部がある私立美大の名門のひとつ。1929年に設立された帝国美術学校を起源とし、1962年に大学に昇格。
加納「荻窪。杵島先生のスタジオ(キジマスタジオ)は四谷にあったの。新宿の四谷。そのムサビの友達の荻窪のアパートからしばらくは通った。杵島先生のところにいる間にあちこち引っ越して、そのうち横浜から彼女が来て一緒に住むようになって」
増田「結婚されたと」
加納「まだしてない。結婚はいつしたかな。いつだったかな」
増田「杵島先生のことは誰かから紹介を受けたんですか」
加納「うん。そう。それで18歳のときから撮りためてた静物写真から厳選して20枚くらい持っていって見てもらった」
増田「例のレタスの写真も?」
加納「レタスも持っていった。他にも静物写真を大量に撮ってたんだよ。芸術寄りの写真。
増田「杵島先生としては『こいつは使える』となったんでしょうね」
一気に名を知らしめた一枚の写真
加納「俺の勝負作だった。18歳から命がけで撮ってきたもののなかから厳選して持っていった。それで許されて入れてもらって、2年ぐらいやった。普段は下働きなんだけど先生が忙しくてときどき時間的に撮れないときがあるのよ。そういうのを撮ると、兄弟子たちより俺が上手いんだ。結果的に先輩を差し置いて俺の写真が採用されるようになった」
増田「それで目をかけてもらった」
加納「そう。それで俺もだんだん『もう1人でできるんじゃないか』『1人でやってみたい』となっていって、フリーになったんだよ」
増田「1964年から1人でやりだして。そのときは彼女は?」
加納「一緒に住みだしたのはその頃だね」
増田「フリーになってもすぐは食べれなかったと思うんですが、ニューヨークへ行くまでの5年間はどんな感じだったんですか」
加納「それこそなんでもやったよ。
増田「平凡パンチの仕事も入るようになったと」
加納「いや。きっかけはアサヒカメラ*だよ」
※アサヒカメラ:1926年創刊の名門写真誌。朝日新聞社(2008年からは朝日新聞出版)が出していた。2020年にコロナ禍で大打撃を受けて休刊した。写真界の芥川賞ともいわれる木村伊兵衛写真賞も主催していた。
増田「そうだ。そうでしたね」
加納「まだ写真雑誌がしっかりしている頃でね。アサヒカメラとかカメラ毎日とかけっこう売れてる時代。
増田「テオ・レゾワルシュでしたね」
加納「あの写真で一気に知られてね。いろんなメディアの編集者が絶賛してくれて連絡があって、平凡出版の石川次郎からも連絡があって」
増田「いよいよ加納典明の夜明けが始まるわけですね」
(第32回につづく=火・木曜掲載)
▽かのう・てんめい:1942年、愛知県生まれ。19歳で上京し、広告写真家・杵島隆氏に師事する。その後、フリーの写真家として広告を中心に活躍。69年に開催した個展「FUCK」で一躍脚光を浴びる。グラビア撮影では過激ヌードの巨匠として名を馳せる一方、タレント活動やムツゴロウ王国への移住など写真家の枠を超えたパフォーマンスでも話題に。日宣美賞、APA賞、朝日広告賞、毎日広告賞など受賞多数。
▽ますだ・としなり:1965年、愛知県生まれ。小説家。北海道大学中退。中日新聞社時代の2006年「シャトゥーン ヒグマの森」でこのミステリーがすごい!大賞優秀賞を受賞してデビュー。12年「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」で大宅壮一賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞。
(増田俊也/小説家)