「この紋所が目に入らぬか!」のセリフでお馴染みの水戸黄門。時代劇の定番中の定番で、諸国を旅して悪人を懲らしめる庶民の味方として広く知られています。


時代劇の黄門様は助さん格さんなどを伴って毎回様々な地を訪れていますが、これは全くの作り話。実際には全国を旅するどころか関東地方を離れたこともほとんどなかったそうです。

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■水戸黄門 = 水戸藩2代目藩主・徳川光圀

「水戸黄門」というのは、水戸藩2代目藩主の徳川光圀の別称で、彼の本当の実績は、悪者退治ではなく史書の編纂にあります。水戸徳川家の2代目藩主だった水戸光圀は、若い頃は非行を繰り返すとんでもない“問題児”でした。

ところがある日、司馬遷の『史記』を読んだことで人生が一変します。彼は学問の重要性に気が付き、自らも史書編纂を行うことを決意します。
光圀が編纂を命じた史書は後に『大日本史』と呼ばれ、幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えました。

水戸黄門、実は自分では旅をせず儒学者を日本各地に派遣していた。そして助さん格さんは実在の人物


徳川光圀(wikipediaより)

そして、その編纂資料を集めるために日本各地に「史臣」と呼ばれる儒学者を派遣したことが後の時代に『水戸黄門漫遊記』という創作物語の元ネタとなり、これが現在われわれがテレビなどで知る時代劇「水戸黄門」の元ネタとなったのです。

■助さん格さんは実在した人物がモデル

ちなみに、作中に出てくる助さん格さんは、実在した人物がモデルになっており、助さんは佐々十竹(ささじゅちく・介三郎宗淳)(1640~1698)、格さんは安積澹泊(あさかたんぱく・覚兵衛)(1656~1737)という人物が元になって生まれたキャラクターです。

水戸黄門、実は自分では旅をせず儒学者を日本各地に派遣していた。そして助さん格さんは実在の人物


安積澹泊(栗原信充画)wikipediaより

佐々十竹、安積澹泊もともに、光圀が彰考舘で大日本史を編集されたときに、史臣の中で彰考舘の総裁になった人物です。特に、佐々介三郎は光圀公の命により神戸・湊川に長期間滞在し、『嗚呼忠臣楠子之墓』を建てて後世に大きな影響力を与えました。

また、安積澹泊は、その晩年に、新井白石・荻生徂徠といった一流の学者と交流を深め、水戸史学を代表する学者として信望を高めました。

参考:三代目旭堂 小南陵、島田 大助『よみがえる講談の世界 水戸黄門漫遊記』

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