豊臣秀吉政権下で政務の中心をになった「五大老」は、秀吉亡き後、大名同士の権力争いと共に瓦解した。五大老に名を連ねた五つの名家は、関ヶ原の大戦の末に大きくその明暗を分けることとなる。


前回の記事

戦国時代の天下人・豊臣秀吉を支えた5人の大名「五大老」たちの明暗【前編】

■「五大老」それぞれの運命

五大老に列席した五つの大名家の関ヶ原以降のありようをみていきたい。

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関ヶ原合戦図屏風(Wikipediaより)

徳川家 関ヶ原の戦いで「東軍」の総大将となった家康は、大戦に勝利したことで実質的な日本の支配権を手に入れた。1603年に江戸幕府を開府。1615年、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると名実ともに天下を統一した。以後、幕府の将軍職は15代に渡り徳川宗家の世襲制となり、265年間に及ぶ江戸時代を完成させた。

前田家 関ヶ原の戦いの直前、利家から家督を譲られていた利長は、徳川家に実母を人質に送ることで家康の信任を得ることに成功した。
関ヶ原では「東軍」に味方し、徳川政権下では領地を加増され加賀・能登・越中120万石に迫る大大名家となり、「加賀藩」の礎を築いた。

毛利家 「西軍」の総大将に担ぎ上げられ敗戦を迎えた毛利家は、戦後の減封により本来の所領であった120万石から周防・長門2ヶ国の約30万石へと大幅な領地削減を余儀なくされた。
その後は「長州藩」として江戸期を迎える。幕末には倒幕運動の中心となり多くの維新志士を生んだ。

上杉家 徳川家と対立して「西軍」に与した。戦後は家康と謁見し謝罪したことで藩の存続を許され、出羽国を中心に30万石の所領を与えられる。
軍神と謳われた先代・上杉謙信が健在であった頃の所領は150万石ほどといわれており、結果的に景勝は一代で上杉家の領地を大幅に減少させてしまった。幕藩体制下では「米沢藩」として幕末まで存続した。

宇喜多家 備前国の当主であった宇喜多家。大名として最後の当主であった秀家は秀吉に育てられ、五大老にまで上り詰める。最盛期は58万石近くの所領を保持し宇喜多家の全盛期を築いたが、関ヶ原の戦いで徳川家に敗れ秀家自身は八丈島に流罪となり同地で生涯を閉じた。
1616年の改易によって大名としては滅亡したが、直系の血筋は現在も続いている。


戦国時代の天下人・豊臣秀吉を支えた5人の大名「五大老」たちの明暗【後編】


江戸城登城風景図屏風(Wikipediaより)

■豊臣から徳川へ

豊臣秀吉から信任を得て栄華を極めた五家であったが、結果的に宇喜多家は大名家として滅亡し、残りの三家は徳川家の傘下に入ることで決着をみた。

弱肉強食の時代とされる戦国にあって、滅亡していった大名家や武家は数知れない。これより約270年後に江戸幕府は滅亡する。

その際に主力として明治政府成立に尽力した藩が、関ヶ原で辛酸を舐めさせられた大名家であった事実には、大いなる歴史の流れを感じざるを得ない。

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