■前回のあらすじ

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男尊女卑が当たり前の江戸時代、数々の武勇伝を残した美人女伊達 「奴の小万」【前編】

浪速の豪商木津屋の娘“お雪”。幼い頃から書画を始めとする教養を身につけながらも、武術も身につけたお雪は、16歳の時四天王寺参りの途中、簪を奪い取ろうとした男二人を投げ飛ばしてしまいます。


その噂は尾ひれもついて大阪中の噂となってしまいますが。。。

■“奴の小万”の誕生

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豊国漫画図絵 奴の小万 画:歌川豊国 国立国会図書館所蔵

お雪の武勇伝の噂を聞きつけた人形浄瑠璃の作家が、なんと『容競出入湊(すがたくらべでいりのみなと)~奴の小万~』という人形芝居を作り、延享5年(1748)道頓堀の豊竹座で初春興行を行ないます。

さらに同じ年の七月には歌舞伎座でも『女尺八出入湊 黒船忠右衛門当世姿』という外題の公演をそれぞれ行い、“奴の小万”という主役を登場させましたた。

奴髻に尺八を持った“奴の小万”の大立ち回りは大当たりしてしまうのです。


何故、“奴の小万”という名がついたかというと、江戸の町に存在した「町奴」からきていると思われます。

「町奴」はお互いの“男伊達”を競い合い、男としての面目を保ち“弱きを助け強きをくじく”という心意気で江戸の町の人々から一目も二目も置かれる存在でした。

そんな「町奴」の心意気は、かよわいはずの娘が乱暴者の男達をなぎ倒すという女主人公に重なるのです。

“小万”という名は、お雪の実母の“万”という名前を元に名付けられました。

このように町の噂に芝居まで加わり、ついには東海道を股にかけた女侠客「奴の小万」の名前は大坂中に知れ渡り、作り上げられたお雪の姿が一人歩きしていきました。

■お雪、京へ

お雪は豪商の木津屋の婿取り娘、つまり木津屋を継ぐ夫をみつけて結婚しなければいけない立場でした。


しかし、お雪の婿候補の男達はどれもこれも軟弱者。ついにお雪は“結婚はしない”と誓ってしまいます。

外出すれば“奴の小万”と呼ばれ、お雪は顔を黒く塗った上に白粉をはたく(!)という化粧をして町を歩くようになったりします。これはどういう意味なのでしょう。そんなに自分を持ち上げてくれるな、このような醜女だとでも言いたかったのでしょうか。

お雪は大阪中の人々が自分に“奴の小万”を重ねてくることに嫌気が差したのか、20歳になった頃、こうした騒ぎから逃れるように、京の御所に奉公に出ます。


お雪は公家長橋局の祐筆(書記係)となり、この頃に和歌や漢詩など雅な教養を身につけたと考えられています。

■お雪・木津屋へ戻る

京の御所で奉公していたお雪は、木津屋の主・五郎兵衛の急死で大坂に呼び戻され、木津屋の女主人として大店を任されることになります。

御所勤めで5年間大阪を離れていたとはいえ、同業者の寄り合いでは“奴の小万”と色眼鏡で見られることも多かったようです。

そのような状況の中、正月の薬種業仲間の寄会でお雪は、19歳の木村孔恭と出会い意気投合します。孔恭は15歳で父親を亡くして商家の家業を継いだのでした。

お雪は孔恭の妻の示子とは幼馴染の間柄ということもあり、家族ぐるみで親交を重ねていくことになります。


男尊女卑が当たり前の江戸時代、数々の武勇伝を残した美人女伊達 「奴の小万」【中編】


木村蒹葭堂像 谷文晁 筆 ウィキペデアより

木村孔恭とは後に木村蒹葭堂と呼ばれる人物で、幼い頃より植物や物産に興味を持ち、8歳の頃から漢詩や書画を学びました。ちなみに書画の師はお雪と同じ柳沢淇園だったのです。

孔恭は家業を継いだ後も学芸に励み、本草学・文学・物産学・黄檗禅に精通し、オランダ語ラテン語を得意とし、書画・煎茶・篆刻を嗜むなど極めて博学多才の人でした。

また書画・骨董・書籍・地図・鉱物・動植物標本・器物などのコレクターとして有名であり、その知識や収蔵品を求めて諸国から様々な文化人が彼の書斎である“蒹葭堂”に訪れました。

木村(孔恭)蒹葭堂は幅広い交友があり当時の一大文化サロンの主となっていきました。ただこの時点でさえ“奴の小万”は蒹葭堂など及びもつかない大阪の人気者だったのです。


しかしお雪は幼い頃より諸芸に興味があったので、蒹葭堂サロンの一員となり、画家、儒学者、俳人等の文人から大名まで当代一流の知識人と交友を重ねるようになっていったのです。

【後編】へ続きます。

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