しかし道隆には彼ら以外の息子もおり、それぞれに活躍していました。
今回は道隆の次男・藤原頼親(よりちか)を紹介。果たして彼は、どのような生涯をたどったのでしょうか。
※こちらの記事もオススメ:
父の後を追って病死?性格もよく美男子、藤原道隆の長男・藤原道頼の生涯をたどる【光る君へ】
■公卿にはなれず
伊周と頼親(イメージ)
藤原頼親は天禄3年(972年)に誕生しました。母親について詳しいことは分かっておらず、長兄の藤原道頼や弟の伊周たちとも違うようです。
18歳となった永祚元年(989年)に五位として見え、正暦2年(991年)には左近衛少将となりました。
正暦4年(993年)には正五位下へ昇進し、長徳元年(995年)に左近衛中将と任じられます。
伊周たちに比べると明らかに見劣りしているものの、着々と出世していると言えるでしょう。
しかし長徳2年(996年)に伊周たちが謀叛(長徳の変)によって左遷されてしまうと、殿上簡(てんじょうかん。殿上人の名簿)より削除。
つまり除名=代理への出入り禁止を食らってしまったのです。
永らく不遇の歳月を過ごし、寛弘2年(1005年)に内蔵頭(くらのかみ)を兼任。寛弘5年(1008年)には備前守(岡山県東部の国司長官)となりました。
時期は不明ながら正四位下へ昇ったものの、寛弘7年(1010年)11月9日に39歳で卒去します。
永年にわたり左近衛中将を務めたものの、ついに公卿にはなれなかったのでした。
■頼親の家族たち
藤原頼親の子・頼心(イメージ)
頼親は源満仲(みつなか)の娘を妻に迎えており、男子の頼心(らいしん)を授かります。
また母親不明の頼昭(らいしょう)も授かったものの、いずれも出家しました。
恐らく中関白家の子弟として出世の見込みもなく、叔父の藤原道長から睨まれて不要な権力争いに巻き込まれないための配慮ではないでしょうか。
たとえこの子たちに野心はなかったとしても、道長が放っておかない可能性は十分にあります。
出世できないなら、せめて心安らかに暮らして欲しい。その後彼らがどんな生涯をたどったのかは分かりませんが、無事と幸せを願うばかりです。
■終わりに
今回は藤原道隆の次男・藤原頼親について紹介してきました。
功遂げ名を成した偉人たちに比べれば実に地味な生涯ではありますが、左近衛中将と正四位下なら、なかなか悪くないところまで行ったのではないでしょうか。
NHK大河ドラマ「光る君へ」に頼親が登場する可能性は低いと思いますが、画面のどこかで活躍しているかも知れませんね。
※参考文献:
- 『新訂増補 国史大系 尊卑分脉 第一篇』吉川弘文館、2001年1月
- 市川久 編『近衛府補任 2』八木書店、1993年7月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan