大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部ですが、彼女の夫となる藤原宣孝は、藤原北家・良門を共通の祖とする又従兄弟の関係にありました。
大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
良門の長男である利基の曾孫が式部の父・為時で、良門の次男である高藤の曾孫・為輔が宣孝の父だったのです。
為時の直系の先祖で公卿だった人物は一人だけでしたが、宣孝の先祖には高藤・定方・為輔と公卿が三人おり、家柄を見れば為時よりも優っていたと言えるでしょう。
宣孝は、為輔の三男として天暦4(950)年頃に生まれています。一方の為時は天暦3(949)年生まれと推定されており、年齢も近く、 花山天皇時代にはともに六位蔵人を務めた同僚でもありました。
宣孝は、そんな為時の娘である式部の存在を、幼い頃から知っていたのでしょう。
紫式部像
宣孝はもともと筑前守(福岡県北西部)として赴任していましたが、彼が式部へのアプローチを始めたのは、九州から帰京した長徳元(995)年頃だと考えられています。
しかし、式部は親子ほど歳の離れた宣孝との恋愛に踏み切ることができず、その翌年、父の赴任先である越前へ、親子で旅立っています。
■つれない式部
紫式部が宣孝との恋愛に躊躇した理由は、年齢のことだけではありません。宣孝には正妻だけでなく複数の妻がおり、彼女たちとの間に少なくとも5人の子どもがいました。
さらに宣孝は女好きだったと言われており、女性関係の噂が絶えませんでした。
それだけを見るととんでもない男のようですが、それでも彼はマメな性格だったようで、式部を振り向かせるべく越前へ何度も手紙を送り続けています。
二千円札の裏に印刷された紫式部
『紫式部集』には、京にいる宣孝と、越前にいる式部との間で交わされた和歌のやりとりが収められています。式部の詠んだ歌としては、以下のようなものがあります。
近江守の女(むすめ) 懸想すと聞く人の「二心なし」など 常に言ひわたりければ うるさくて
(近江守〈滋賀県の国司〉の娘に言い寄っていると噂される人が、「あなただけです」などといつも言ってくるのがわずらわしいので)
みづうみに 友よぶ千鳥 ことならば 八十の湊(やそのみなと)に 声絶えなせそ
(湖で友を呼ぶ千鳥さん、どうせなら、いろいろな場所で、たくさんの女性に声をおかけなさい)
よもの海に塩焼く海人の心から焼くとはかかる なげきをやつむ
(あちこちの海辺で塩を取るために、投げ木=焚き木を集めて焼く海人のように、あなたは自分からいろんな人に言い寄って、嘆きを重ねているのでしょう)
■越前を離れて結婚へ
このような素っ気ない手紙を受け取った宣孝ですが、ある時、式部の気を引くための工夫をしました。真っ白い紙の上に朱色の墨を点々と滴らせて、「私の涙の色です」とだけ書いて送ったのです。それに対する式部の返事は次の通りです。
紅の 涙ぞいとど 疎まるる 移る心の 色に見ゆれば
(紅の涙を見て、ますます疎ましくなりました。移ろいやすいあなたの心の色に見えるので)
すぐに色あせてしまう朱色の墨を、移ろいやすい宣孝の心の色に重ねたわけです。さらに式部はこの歌の後に、
もとより人の女(むすめ)を得たる人なりけり
(もともと、妻のいる人なのです)
と綴っています。
コチドリ。紫式部は、宣孝を「湖で友を呼ぶ千鳥」にたとえた
これらの文面だけを読めば、全く脈無しのように感じられますね。とはいえ、本心から嫌っていれば返歌を贈ったりはしないでしょう。ある意味で、二人の関係は深まっていったと言えます。
寒さの厳しい遠国にいる式部は、もしかすると都から届く宣孝からの便りを待ちわびるようになったのかも知れません。
あるいは、どんなに冷たくあしらっても諦めず、恋の歌をせっせと送ってくる歳の離れた宣孝に、親しみを感じるようになったとも考えられます。
長徳3(997)年の晩秋から翌年の春にかけて、紫式部は父を越前に残してついに単身で帰京しました。武生で暮らしたのは1年半ほどだったと考えられています。式部が京を離れたのは、生涯でただ一度、この期間だけでした。
そして京都へ戻った彼女は、間もなく宣孝と結婚したのです。
参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)
トップ画像:大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
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