天保八年(1837年)、蛮社の獄に連座して江戸小伝馬町の獄者で永牢(終身刑)に処せられていた蘭学者・高野長英。

入牢してから6年目の天保十五(1844)年、獄舎に火災が起こったことをきっかけとして長い逃亡生活を始めました。
6月晦日のことです。

江戸時代の蘭学者・高野長英の逃亡を助けた越後の和算家・小林百...の画像はこちら >>


高野長英(wikipediaより)

彼は、幕府の追跡の手を逃れ逃れて、上州(群馬県)中ノ条町の門弟の蘭学医・柳田鼎宅に数か月滞在しました。翌年の弘化二(1845)年、郷里水沢(岩手県水沢市)で老母との再会を果たしました。

昭和十六年(1941)、直江津で長英の逮捕状・人相書および長英が潜伏中に土地の有力者の家で書いた「医説」が発見され、さらにその家につたわる家伝書によって、長英が直江津に二か月も潜伏したこと、また地主の舟で送られ、新潟に上陸して水沢へ着いたことが明白となりました。これは、日本史の謎を解く貴重な発見でした。

■和算家・小林百哺を頼って直江津に

追われる長英が直江津に来た理由、それは越後の和算家・小林百哺を頼ってのことでした。


小林百哺は、文化元(1804)年の生まれで、長英と同い年。現上越市の小猿屋村の篠宮家に生まれ、直江津の床屋・小林藤八の弟子になりました。

高良鷗憐の塾で和算を、府中八幡の渡辺月斎について経史を学び、天童の誉れが高く、文政九(1826)年、養女よのと結婚。23歳のときに上洛して小嶋トウ三や土御門家司天官安部晴親に、暦法、天文、易学、測量などを学んで皆伝を受け、土御門家専属の学者として自ら免状を出す格式を得ました。

6年後に帰郷して塾を開きました。その名声は天下に知れ渡り、百哺の名声を聞き、遠く信州上州から修学するものもあり、慶応元(1865)年の門人帳には5000人の名前が記されています。


■福永七兵衛の元に身を寄せる長英

長英と百哺は学問によって親しい間柄でした。ところが、百哺のところは塾を開いていたため、人の出入りが多いうえに、長英は供の清吉まで連れてきたので隠す場所がありませんでした。仕方がなく当時大肝煎を務めていた福永七兵衛を頼みました。

七兵衛は本来、長英を召し取らなければならない立場の人物でしたが、学識の豊かな彼は長英に深く同情し、匿うことを了承しました。七兵衛は、廻船問屋で酒造業を兼ね、屋敷も数千坪もあり、長英らを隠匿するには最適でした。

こうして福永家では、長英が大好きだった酒も出し、お客のように歓待し、十二月半ばごろ、夜陰に乗じて小廻船で、路銀と食料を与えて二人を新潟付近まで送迎したのです。


参考文献:図解 にいがた歴史散歩 上越

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