言うまでもなく、「謝罪会見を開かなくてはいけない」ような問題を起こすこと自体があってはならないことです。
謝罪会見の冒頭では、まず、真摯な「お詫び」が必要です。法的責任や社会的責任についてだけでなく、世間に対して何らかの「不安」「心配」「疑惑」「迷惑」「誤解」などを与えたことに対しても、「お詫び」をしなければなりません。セクハラやじ騒動の鈴木都議が、会見の冒頭で「この度、私の不適切な発言で関係者の皆さまに多大なご心痛、ご迷惑をお掛けしたことに対し、心からお詫び申し上げます」と、立ったまま、深々と頭を下げ続けていたのは、謝罪会見のセオリー通りでした。
ただし、「お詫び」はひたすら頭を下げ続ければ良い、謝罪の言葉を繰り返せば良い、というわけではありません。大切なのは「何について」「どのような視点から」謝罪するのかを明確に言葉にして、相手を納得させることです。
「お詫び」する立場と相手との間に認識のズレがあると傷が大きく前出の鈴木都議も会見で「謝罪をするのが遅れてしまったことに対し、真実を語る機会を逸してしまったことに対し、お詫びをする」と発言しましたが、それだけで済まされるはずがありません。マスコミ各社から厳しい質問を浴びることに。「配慮のない発言だったことをお詫びする」と説明すると、「どういう点で配慮がなかったと考えているのか」「なぜ、そのような発言をしてしまったのか」早く結婚さえすれば少子化が解決すると思っているのか」など人格や見識を問われる質問が矢継ぎ早に投げかけられました。「お詫び」をする立場の人間が、「本当に何が問題だったのか」を十分に理解していない限り、謝罪会見は火に油を注いでしまいます。
一方の野々村元県議は、謝罪ではなく、釈明のための会見でした。逆ギレし、感情を抑制できなくなったことは論外ですが、「こんなことは議員活動全体の中の小さな問題である」という発言に見られるように、自身の行為が問題であることすら理解できておらず、また、「私としては」「私なりに」と一人よがりの発言も多く、なぜ、自分が批判されるのか納得できていないようでした。
「お詫び」をする立場と相手との間に認識のズレがあると傷が大きくなります。伝わる「お詫び」をし、説明責任を果たすために、まず、問題の本質をしっかりと見極めることが重要です。