植木等が好きで好きでたまらなかった。そう思ってたら『やる気があるなら面倒見るよ~』って付き人兼運転手の募集があった(笑)。

それも週刊誌の三行広告に。600人くらい応募があったそうだけど、僕に即決だったみたい」

17年10月、本誌にこう話していたのはコメディアンの小松政夫さんだ。小松さんは今月7日、肝細胞がんのため亡くなった。78歳だった。

日本喜劇人協会の会長を務めるなど、日本有数のコメディアンだった小松さん。冒頭のインタビューにあるように、22歳のときに小松さんは昭和を代表するコメディアンの植木等さん(享年80)の付き人となり芸能界へ。

その師弟関係は自伝的小説「のぼせもんやけん」にも描かれ、17年にはNHK総合でドラマ化もされた。

「もともと小松さんは俳優を志して上京しましたが挫折。その後、車のセールスマンとなり大出世しました。しかし職場で人を笑わせたりするうちに、芸能界に未練があると気づいたそうです。

いっぽうで植木さんは『車を売ってたなら、運転も上手だろ』と軽い気持ちで付き人に決めたといいます。“小松政夫”という芸名を考えたのも植木さんでした」(スポーツ紙記者)

植木さんのことを“オヤジさん”と呼んでいた小松さん。

その理由について、冒頭のインタビューで「『君はお父さんを早く亡くされたようだから、私のことを父と思えばいい』と言われたんです。『じゃあ、おやじさんとお呼びしてよろしいですか?』と訊いたら、『おやじさんか、それいこう!』となって」と明かしている。

「小松さんのお父さんは家族に暴力をふるう上に、隠し子もいました。亭主関白でもあったので、小松さんは『ひどい人だ』と思って育ったそうです。しかし小松さんが13歳のときにお父さんは亡くなりました。父親という存在がよくわからないまま育ったため、『父親と思いなさい』といわれたことが小松さんはとても嬉しかったそうです」(前出・スポーツ紙記者)

また植木さんは温かくも、ときに厳しく“教育”してくれたようだ。

「植木さんは『芸は教わるものではない』といいながらも、道義やモラルについては特に厳しかったそうです。いっぽう『モノマネは洞察力が鋭くないとできない。苦労した芸なんだから大切にしろ』と誉めたことがあったそうす。小松さんはよほど嬉しかったのか、晩年でもその言葉を回想して『一生懸命育ててくれた』と話していました」(前出・スポーツ紙記者)

小松さんが植木さんの付き人を務めたのは、3年10カ月ほど。しかし独立以降も、植木さんが07年3月に亡くなるまで交流は頻繁に続いた。“親子愛”でもある師弟愛は40年以上も築かれたという。

「植木さんは周りに『小松はなかなか面白いんだ』と、小松さんの知らないところで宣伝してくれていたそうです。また2人が出会ってから30年ほどしてから、植木さんは小松さんの名前の入った“のれん”をプレゼントしました。その文字は植木さんによるもので、何十枚も練習して書き上げたと聞きます。それほど愛情が深かったのです。

小松さんはいつでも植木さんを『喜ばせたい』という気持ち一心だったといいます。付き人時代は献身的に身の周りのことをしたり、いっぽうでパンツを脱いで洗車をして笑かしたり。

ですが一番植木さんが喜んでくれたのは、テレビなどを通して小松さんの活躍ぶりを観ることだったといいます」(テレビ局関係者)

植木さんが亡くなったときも、小松さんは愛を感じたという。

「ちょうど名古屋で舞台をしていたときに、『植木さんが危ない』との連絡が入ったそうです。息を引き取る瞬間にはほんの数分で間に合わなかったそうですが、植木さんの奥さんは『アンタを待っててくれてたんだよ』と。そのことで、小松さんは植木さんからの最後の愛を感じ取ったといいます。

晩年、小松さんは『芸人という言葉は好きじゃない。コメディアンが今の時代にはいない』と嘆いていました。

それは日本喜劇人協会の会長を務めていたからでもあるのでしょうが、やはり植木さんがコメディアンという肩書を大事にしていたからです。そうして植木さんの遺志を継いでいくことこそ恩返しだと小松さんは考えていたそうです」(テレビ局関係者)

固い絆に結ばれていた小松さんと植木さん。今ごろ、久しぶりの再会を喜んでいることだろう。