4月30日、近藤真彦(56)がジャニーズ事務所を同日付で退所したと発表された。

近藤は事務所公式サイトを通じて、《事務所との話し合いの結果、僕の新しい旅立ちを理解していただき、40年以上お世話になったジャニーズ事務所を退所させていただく事になりました》と報告。

今後は、《自分の責任において芸能とレースの道を歩んでいきたい》とのこと。

’80年12月に『スニーカーぶる~す』で歌手デビューした近藤。40年にわたり“長男”として活躍したが、’09年12月に本誌でその自覚をこう語っていた。

「ジャニーズ事務所の長男として、後輩たちからもいつまでもかっこよく見られる存在でいなきゃいけない、って意識でやっています」

いっぽう、近藤は’84年に自動車のオートレーサーとしてデビュー。以降、アイドルと並行して“二足のわらじ”で活動してきた。

■レーサー活動の陰にあった“葛藤”

デビュー35周年を控えた’15年8月、近藤は本誌で中山秀征(53)と対談。レーサーとして歩み出した頃を、こう振り返っていた。

「25歳くらいでレースを本気で始めて。レーサーとしては遅いスタートだったので、10年くらいは芸能活動を休業させてもらって没頭しました」

しかしレーサーとして邁進するいっぽう、アイドルとしての立ち位置に葛藤も感じていたという。

「20代後半だったかな、テレビをつけたら後輩たちが歌ったり踊ったりしていて。すごくいい仕事をしているから、その姿を見られなかったもんね」

「芸能のほうもいつまで続けていけるのかなという意識もすごくあったんで。もうそろそろジャニーズ事務所もオレのことを必要としなくなる時期がくるんじゃないか、周りから見ても近藤真彦にちょっとかげりが見えるというときだったから。

なんとなくレースに逃げちゃったんじゃないかって思う」

そんななかで30歳目前の’94年6月、近藤はフランスのル・マン24時間耐久レースに初参戦。その後も全日本F3000選手権や全日本選手権フォーミュラ・ニッポンなど、数々のレースに意欲的に参戦してきた。

’00年には「KONDO Racing」を設立し、監督としてチームをまとめる立場となった。デビュー25周年を迎える’05年には環境も落ち着き、周囲も認めてくれるようになったという。

「ジャニーズ事務所に『25周年だけど、助けてくれない?』って言ったら『よく戻ってきた』と。『レーシングチームをやったおかげで大人になって戻ってきた』と言ってくれて(笑)。25周年の武道館から35周年、この10年はあっという間でした」

「近藤さんはレーサーになる時、『日本のモータースポーツの素晴らしさを広めたい』と意気込んでいたといいます。しかしレースの世界は、忍耐強さが問われることも多々あります。近藤さんは数々のレースを経験し、『勝負は勝たなくちゃ意味がない』と実感。チームを勝利に導くため、『勝つためには妥協しない』と強い責任感を抱いているようです」(スポーツ紙記者)

古巣を旅立った近藤にとって、レースの世界は次なる主戦場となりそうだ。

編集部おすすめ