「この先も私たち夫婦は健康で、そして私はチビちゃんが恥ずかしくないよう、いつまでもきれいでいなきゃ(笑)。とにかく、この子が大きくなるのを、夫婦でしっかりと見届けていきます!」
まだ2カ月目の“新米ママ”の小松みゆきさん(50)は、わが子を抱いて微笑んだ。
90年代にグラビアで人気を博し、その後は女優として活動を続けるなか、40代初めから不妊治療をスタート。今年2月に念願の長女を産んだときには、超高齢出産ギリギリの49歳8カ月だった。
ブログやSNSなどを通じて、自身の不妊治療の体験を発信し続けてきたが、出産後は多くの祝福コメントが寄せられると同時に、社会的なニュースにもなった。
「夫は不妊治療には、とても協力的でした。夫婦で努力して、ようやく授かったわが子ですが、振り返れば、知識不足のせいで、不要な治療に無駄な時間とお金を費やしてしまったと、つくづく思うんです」
今より、かなり情報が少なかった7年前。手探りの状態で、最初に訪れたのは、産婦人科がメインの、いわゆる“町医者”だった。
「私一人で行き、女性ホルモンの値を検査しました。その後、主人のほうも精子の状態を調べました。結果は、夫婦共に“問題なし”。つまりは、私が高齢であることが主な原因とわかるんです。しかし、そこの病院では『回数を重ねるしかない』といった助言でしたから、埒があかないと判断し、すぐに最初の転院をします」
そうして、転院7回、顕微授精14回、高度不妊治療を7年間、総額1,000万円という不妊治療の長い苦難の道のりが始まった――。
「ずっと2人だけで暮らしてきたのだから、そんな生活が、この先も続いていくんだろうな」
夫婦共に、半ば諦めと共にそう考え過ごしていた20年6月半ばのこと。
当時日本ではメジャーでなかった「着床前診断」を自分で調べ、その検査を終えてから届いた知らせだった。小松さんは、かつてない、ある確信に満ちた喜びを心から感じていた。
「今度は受精卵の検査もして、しっかり着床するはずの卵なのだから、この先もきっと大丈夫と思えたんです」
9月14日、5カ月を過ぎ、安定期に入ったところで妊娠を公表。そして2月18日、3,357gの元気な女の子が誕生した。
「帝王切開ですから、いわゆる産みの苦しみといった達成感もなくて。やがて産声も聞こえホッとしていたら、私の胸のあたりに赤ちゃんが連れてこられたんです。初めて対面したときの感動ですか? それが、“エコー写真とまったく同じ顔!”と思って、つい笑っちゃいました」
高齢出産だからこその万感の思いは、その後、初めての授乳のときに、ふいに込み上げてきた。
「母乳をあげながら思うんです。ほぼ50歳で産みましたから、もしかしたら、この子の結婚式には出られないかも、孫の顔も見られないかもしれない。この子と一緒にいる時間はほかのお母さん方よりきっと短いわけだから、しっかりしなきゃ、長生きしなきゃと思っているうちに、初めてホロッと泣けました」
この先も悲喜こもごも、いろんな涙のシーンがあるだろう。でも家族3人なら、きっと大丈夫だ――。
「退院した朝、私が寝ていたら、夫がいつもより1時間早く起きて家事をやってくれていました。出勤前のことです。いままではなかったことで驚きましたし、素直にありがたかったですね」
最初は妻主導で始まった不妊治療について、ご主人はどう思っていたのだろうか。
「彼女は何事も決めたらやる人なので、僕にできることは協力しようと思っていました。通院も、それほど抵抗はなかったです。慣れ、でしょうか。逆に仕事で休みが取れないぶん、お金の面での協力は惜しまないつもりでした。まあ、保護猫も11匹いますので、少しは手伝わないと、妻もストレスがたまるでしょうから(笑)」
小松さんは、ブログなどで、男性への呼びかけも繰り返してきた。
「ご夫婦で不妊治療中の当事者の方、グラビア時代からのファンの男性たちも、理解しようと読んでくださっているようです。同時に女性からは、『うちの夫にも協力してほしい』との声が、相変わらず多い。共に通院してくれる男性は、不妊に苦しむ女性にとってヒーローということを知ってほしいです。
また、私は、高齢出産を必ずしも奨励しているわけでもありません。
取材日の午後の数時間を、ぐずることもなく協力してくれたチビちゃん。インタビューを終えたときも、スヤスヤと天使の寝顔を見せていた。
(スタイリスト:佐藤友美/ヘアメーク:市川裕子/衣装:ふりふ/靴:DIANA)